2011年10月31日月曜日
特別シンポジウム:「郊外」と「わたし」の居場所ー「ニュー・ドキュメンタリー」から考える今日の制作とその環境
2011年10月30日日曜日
今後の予定です。
参加可能な人は、15時にゼミで授業を行っている部屋の前に集合してください。
11月2日 ホンマタカシさん、鈴木了二さんを招いての座談会を17時より開催します。
準備を行うため、参加可能な人は13時から大学院棟二階のレクチャールーム前に集合をお願いします。
11月3日 文学フリマに出店します
準備から参加可能な人は、9:30に流通センター駅(東京モノレール)前に集合してください。
文学フリマ自体は、10:00~16:00まで開催しているので、時間がある人は遊びに来てください。
文学フリマに出す紙面の声明文を変更しました。これが、差し替えたモノです。
誰から頼まれた訳でもなく映画を作り、友人でも知人でもない「誰か」に「見せる」事。そこには、不安と恐怖がある。それらから逃れる事は簡単だ。友人知人の了解の範囲内で映画を作り、彼らにのみ提示すればいいのだから。
しかしそれは、見ない事の選択でしかない。見えない「誰か」を意識し、恐怖や不安と向き合う事で、「撮る」事は発見へと変質する。生活を支える「ここ」がよそとして見出され、「私」が意識していなかった私と出会う。
不可視の「他者」に「見せる」事を前提にした「撮る/見る」行為は、発見を誘発するのみならず、新しい了解の為の「場」を構成していく事に他ならない。
本誌が、見えない「他者」を意識化し、自身の言語を翻訳し直す、映画とは異なる仮設的な「場」となればと考えている。
東京造形大学 諏訪ゼミナール 伊東弘剛
2011年10月21日金曜日
文フリに出すヴァージョンの声明文です。
「「撮る」とは何にもまして「見る」ことにほかならならず、間違っても「見せる」ことではない。ましてや、「聞かせる」ことでもないはずです。」と、蓮實重彦氏は言う。
蓮實氏の言葉は、「撮るたびに「見る」ことが倫理として形成される映画の役割がかつてなく求められている。21世紀においてもなお映画が必要とされているのは、そのためにほかならない」と続く。「見る」ことの「倫理」。それは、「個人」的な行為を脱「個人」化していく運動である。
DVの普及や映像投稿サイトの拡張等、映像環境が「液状化」した「今日」だからこそ、その運動は求められなければならない。それは、ホンマタカシ氏の「報道的なドキュメンタリーではなく、個人的なドキュメンタリーがどの様に可能かを考えるものとしての「今日」のドキュメンタリー」と云う言葉とも響き合っている。
本誌は、見えない他者を意識化し、自身の言語を見つめ直す、映画とは異なるもう一つの<仮設>的な「場」となればと考えている。
イトー
2011年10月17日月曜日
〜雑誌の現在状況〜
2011年9月25日日曜日
想田和弘
2011年9月20日火曜日
小川紳介 作品上映会について
上映作品は、「三里塚・第二砦の人々」(1971年/143分)と「1000年刻みの日時計 牧野村物語」(1986年/222分)です。
スケジュールや上映場所が決まり次第、再度、ブログにアップします。
小川さんの作品はDVD化されておらず、フィルムを借りての上映になります。なので、多くの人に見ていただければと考えています。個々に、ツイッター等で告知してくれると助かります。
イトー
2011年9月15日木曜日
2011年9月7日水曜日
ブログのアップ遅れてしまいすみません。
ダンスビデオの座談会は、9月中に、座談会を行えるように飯名さんと調整中です。座談会は、西川君を中心に企画を進行しているので、参加希望の人は、西川君に聞いてみてください。現在のところ、西川君と平野君、ぼくがメンバーです。又、座談会に関連した論文を西川君(映画のモンタージュとダンスビデオのそれとの比較)、平野君(PVとダンスビデオの相関から)に書いて(書く為の資料の読み込みをして)もらっています。
「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の方も、早い段階で、東京事務局でのインタビュー(「山形」のこれまでとこれから)を行いたいので、小林さんと調整してみます。尚、9月の授業後は、(金曜日だけではなく、)勉強会を開こうと考えていますので、「山形」に参加予定の人は、できる限りご参加ください(参加予定ではない人も参加可能であれば参加していただけると嬉しいです)。勉強会の日程等は、今週の金曜日に決めましょう。
「ニュー・ドキュメンタリー」の座談会は、まだほとんど白紙なので、近いうちに、諏訪さんと話し合います。10月の半ば、「山形」が終わってからの開催になると思いますが、又、決まり次第ブログに上げます。それと、ぼくが、ホンマタカシさん、鈴木了二さんの論文を書こうと考えています。
仮のものですが、雑誌の宣言文を描いたので、それもアップしておきます。色々と決まりしだい随時、可変していくと思いますのでよろしくお願いします。
イトー
2011年9月6日火曜日
声明文(仮)
私たちが所属する、東京造形大学諏訪敦彦ゼミナールでは、ドキュメンタリー映画研究を主軸に、日々、ディスカッションを行っている。その中で、度々、「見る」事の道徳性と倫理性の差異が大きな問題となる。自身が所属する共同体が規定する視線と、自身を超えて存在するものによって形成されていく眼差しとの差異。それは、単純な二元論に還元できるものではなく、ディスカッションは常々、堂々巡りの様相を帯びていく。
そして、そこで語られる言語は、なし崩しの共同言語<らしき>ものに彩られてしまっている様に(さえ)見える。だからこそ、私たちの言語は、「他者」の視線を必要としている。共同体によって規定された言語を変換していく為に。
自身との間に共通の言語を持たない他者に対して言葉を発する事。雑誌という形態の選択は、流通の中にいる不可視の他者と向き合おうとする試みである。そこには常に、誤読される不安が孕んでいる。しかし、その不安の中にしか、「他者」は存在しないのではではないか。いや、届かない(かもしれない)事、ディスコミュニケーションを前提とした上で初めて、「他者」が意識され、届けようとする意志、翻訳という行為が誘発されうる。自身の思考を、「誰か」に向かって投げかける運動としての翻訳とは、自らの思考を咀嚼し、変容させる。そして、その翻訳行為の中に、「他者」のみならず、自身の(流動的な断片の)発見があるのではないか。
伝えるとは、教える事でもある。そこでは、いや、どんな状況においても関係性は常に、非・対称(ディス・コミュニケーション)でしかない。しかし、翻訳という行為の中で、発話/記述者は、教える者でもあると同時に、学ぶ者としても存在していく。あるいは、非・対称な関係を自覚し、その落差を意識することで初めて、(翻訳のみではなく)アクションを可能にする空間が立ち上がるというべきだろうか。自身の思考の、自身が気づかなかった側面を、眼前にいるーもしくは、いないー「他者」のあり方を、言語のトランスレーションの中で見出していく。そこで初めて、自身の思考、価値だと信じるものが、疑うべきモノとして現れ、自らの評価軸なるものの(再)構成が開始されていくのではないか。それは、われわれにおいてのみならず読者においても言える事だろう。なぜならば、非・対称な者同士のコミュニケーションとは、常に、ただ単に一方通行なのではなく、双方向に向かって、一方通行なのだから。
本誌では、インタビューや座談会を通して、監視カメラ等の非主体的な視線に取り囲まれた現在の中で、どこまでもミクロで、責任―視線の暴力性―から逃れられない「主体」的な眼差しが、「ナニ」を見つめていく(べきな)のかを考えていきたい。それが、常に「私」を超えて存在している「世界」の断片、眼前を捉えるしかないキャメラを抱え、(暫定的でしかない)評価軸を内在したわれわれの、立ち位置・立ち方の探求の指標となる事こそを目指して。
眼前の「他者」と向きあう事。見えない他者に向かって言葉を発する事。それに伴う翻訳行為を主軸とした雑誌の制作と流通。それが、「世界」や「他者」に対して、倫理的であろうとする意志を内包していると信じている。
「報道的なドキュメンタリーではなく、個人的なドキュメンタリーとはどの様に可能かを考えるものとしての「今日」のドキュメンタリー。」吉増剛造との対談の中での、ホンマタカシの言葉である。その言葉は、「吉増さんの(Gozo cineの)中にその答えがあると言ってもいい。」と、続く。
ホンマタカシが自身の展示のタイトルにもした「ニュー・ドキュメンタリー」なるもの。それはつまり、個人的で、「今日」だからこそ可能な、ドキュメンタリーを指し示しているのではないか。
吉増剛造の様に、イメージ(名前や図像)を所有するのではなく、積極的にイメージに所有されようとする態度の中に。中立的、超越的な視座を徹底的に拒否し、ミクロな立ち位置を保ちながら、分類の対象であるモチーフ、眼前にどこまでも巻き込まれながら図鑑を作ろうとする、(ホンマタカシが敬愛してやまない)中平卓馬という写真家の矛盾したポジションが指し示す姿勢に。シャッターを切る事=作家性という愚直な構図から距離をとり、自身が撮影し来た写真だけではなく、自身が撮影して来なかった写真をも介入させることで、生きたものとしてのデータベース、「世界」という不可視の形式を立ち上げようとするホンマタカシの「ニュー・ドキュメンタリー 展」のあり方に。「今日」の、個人的なドキュメンタリーの可能性が内在しているのではないだろうか。
「ニュー・ドキュメンタリー」という言葉を一つの主題に、ホンマタカシ、諏訪敦彦らによる座談会。ドキュメンタリー映画の「今日」的な在り方、「他者」や「世界」に向けられた眼差しの在り処を探る為の、山形国際ドキュメンタリー映画祭の出品作家へのインタビュー。ダンスビデオの制作者やダンサーを迎えての、身体と映像の「現在」に向けられた座談会。その他、ゼミ学生による企画、文章(論文、エッセイ)によって、本誌を構成していく。
2011年8月18日木曜日
山形国際ドキュメンタリー映画祭
2011年8月11日木曜日
山形について
2011年8月6日土曜日
書き込みに対して
確かに、ホンマさんの作品は、彼が帰属してきた、あるいは帰属していなかった複数の時間・空間の結合体としてありますね。その時、選択を可能とする彼が撮ってきた(撮ってこなかった)写真のデータベースーそれは、自身が撮っていない写真を取り入れることで「世界」と呼びうるのかもしれないーを硬直したものではなく、生きたシステムとして再構築しようとしているのかもしれませんね。
河城くんのように、ホンマタカシ展の感想を述べてもらえると参考になるので、他の人もよければお願いします。
河城君は、自身の意見をもとに、「ニュー・ドキュメンタリー」として選択しえるものを探してみてもらえますか。
小林さん、山形の方に連絡してくれてありがとう。確かに、東京でできることは、早い段階で行動しておかなくてはいけませんね。
企画書は、今の段階では、暫定的にしかだせないのだけれど、20日までに事務局との顔合わせをしたいですね。
僕の方で、少なくとも、12日までには(暫定的な)企画書をかきあげるので、12日以後にアポイトメントを撮ってもらえると助かります。
他にも、山形でインタビュー等を行いたい人がいると思うので、その人達も早い段階で教えてもらえると助かります。
東京の事務局へインタビューへ行くのならば、近いうちに、山形希望の人で集まった方がいいですので。なので、山形を希望している人は、今日から20日までの空いてる日をブログに上げてください。
イトー
2011年8月5日金曜日
文芸誌について
2011年8月4日木曜日
ニュードキュメンタリー?
ニュードキュメンタリーとは作者自身の制作して生きてきた過程を自身の作品の中から見せていくものである。その中で提示されてくる作品それぞれ個々には特に独立した大きな意味は無く、はっきりいって作者の意図する、見せたいと思う「過程」が見えるものであるならば何でもよい。個々が完成されている必要も無く、全体として大きな枠で見て一定の一貫性があるならば成立する。例えばホンマタカシさんのニュードキュメンタリーは、ホンマさんとホンマさん自身がフレームを選び取った写真をもって構築したものである。ここで展示される作品群はいくつかのグループに分けられるが、長短はあれどそれぞれがまとまった時間の流れを感じさせる。それはまさにホンマタカシさんが生きてきた時間なのである。
Tokyo my daughterは知り合いの娘を撮ったものであるが、撮影者としてのホンマタカシが友人の娘を何年も撮り続けたというドキュメンタリーでもある。ファウンド・フォトを織り交ぜたのもそれ自体が、織り交ぜたという行為のドキュメントである。世界中のマクドナルドの写真は、今までその地を踏んできたという証である。
ニュードキュメンタリーは目に見える形で直接的に訴えることはなく、羅列された作品の背後から浮かび上がってくる。別々の意図、場所、時間で撮影された写真から、ホンマタカシという人間を描いている。作者自身やそのまわりの人間に直接カメラを向けて脇目も振らず踏み込んで深く追求したりはしないが、セルフドキュメンタリーともいえるだろう。
作品自体よりも過程という意味では映画でいうメイキング映像が映画本編を喰ったような形である。
河城貴宏
2011年8月3日水曜日
久保寺君の書き込みに対して
皆さんは、どうでしょうか。
これは、参考までに書き込みます。
吉増剛造さんとの対談の中でのホンマタカシさんの発言です。
「報道的なドキュメンタリーではなく、個人的なドキュメンタリーとはどの様に可能かを考えるものとしての「今日」のドキュメンタリー」「吉増さん(のgozo cine)のなかに、その答えがあるといってもいい」
(7/30ポレポレ東中野 「予告する光」アフタートークにて)
イトー
雑誌の件です
雑誌の内容は、去年行われたペドロ・コスタ、黒沢清の講演内容の記録(雑誌の最終ページから、僕らの企画とは逆に開いていく構成にするなど、雑誌の綴じ方は、また、皆で話し合いましょう)。「ニュー・ドキュメンタリー」を主軸にした座談会(ホンマさん、鈴木了二さんなどを呼ぶ予定)。山形国際ドキュメンタリーでのインタビュー(上映作品が決定してから誰にインタビューへ行くかを相談していく)。等が、暫定的ですが、現在の決定事項です。
他に、個々でやりたいことがあれば、企画案を提出してもらえば、雑誌の方向性を考えていく上でも、個々の今後の為にもいいと思うので、やりたいことがある人は、ブログにアップしていってください(内容や予算のことをちゃんと考慮したうえでアップしてくださいね)。
西川君も、企画内容が明確になってきたら、又、アップしてください(個人的には興味の枠内ようなので、実現できる様に一緒に練っていきましょー)。
自身の企画以外でも、上記の(2つの)企画でインタビュアーをやりたい、記録係(写真か映像どちらかも記入してください)をやりたいなどの要望があったら、それもアップしていってください。
イトー
2011年7月27日水曜日
雑誌の企画案
後期に向けて
2011年7月25日月曜日
雑誌制作の件です。
授業で出た座談会や「ニュー・ドキュメンタリー」という言葉に対する意見や提案など、なんでも載せてください。
それ以外でも、自分がやってみたい企画などがあれば、詳細なものでなくても大丈夫なので、随時アップしていってください。
よろしくお願いします。
イトー
2011年7月6日水曜日
今週8日のゼミ
2011年6月30日木曜日
明日のゼミ
2011年6月23日木曜日
明日のゼミ
2011年6月20日月曜日
「予め失われた表皮の為に (親愛なるフェラーリへ)」
原一男と夫婦関係にあった、又は、夫婦関係になる前の武田美由紀のモノクロ写真。「極私的エロス・恋歌1972」は、それらの写真の構成的展開の上に、原のモノローグが被さり起動していく。
作品内でのそのシークエンスの役割とは、「今」はなき「かつて」の関係、沖縄で暮らす武田の元に向かう原の動機の(独白を通しての)提示であり、キャメラと言う異物を通したコミュニケーションによって変容していく関係性の強調である(「かつて」を認識させることで「今」生成され行くアクションをより動的にする)。
自宅であろう室内でカメラ(多分、原が撮影者である)に向かって微笑みかけたものや、原との間に生まれた、毛布に包まれた子供を愛おしそうに見つめている武田美由紀を切り取った写真。それらのイメージは、きわめて凡庸であり、原のモノローグが被さることで、既にない「家族」の姿を浮かび上がらせていくに過ぎない。すべての写真が上記の様な明確なイメージであったならば、これ以上そこに言及する必要はないのだろう。しかし、僕はもう少しこの冒頭のシークエンスについて考えなければならない。
タイトルにある「極私的」とは、セクシャリティー(衣服等の覆いの内側)の露呈こそを指し示している。セックスや出産を切り取ったシーンが本作の構成の中で高いウェイトを占めている事からもそれは明らかだ。
ここで、写真とモノローグによる冒頭のシークエンスの冒頭を思い出したい。証明写真の顔を思わせる無表情さを持って切り取られた、武田の表情に寄ったキャメラ。キャメラは、少しずつ引いて行き、武田の全身をスクリーンに投影していく。無表情な顔の下の裸体(この写真だけは、この映画の為に撮られたものだと考えられる)。「極私的」であるはずの裸体は、この写真のなかでプライベートなものとしては存在していない。裸体をさらしている相手、カメラとの関係が機械的かつ不明瞭であるからだ。ここでの裸体は、何も内包せず、「裸体である」という凡的事実を体現しているにすぎない。原は、内実なきヌードを作品の導入とすることによって、(原の言うところの)「アクション・ドキュメンタリー」、キャメラを使った関係性の(脱)構築によって内包されていく「ナニか」を引き立てようとしているのだと言える。しかし、それは成功しているのだろか。何よりも、覆いの先に「個」の姿、真実と呼ばれるものが存在しているのだろうか(諏訪さんがディスカッションの中で「集団から個へとドキュメンタリーの焦点がシフトした 略 個の中に真実を見出そうとした。」と言っていた通り、原が人の内側に真実を見ていたのならば)。機械的なこの裸体は、「日本人である」「女性である」と言った用意されているフレームを予め持ち、映画の運動の中で確かに「ナニか」を内包していくように映る。しかしこの、無表情な裸体としての武田美由紀は確実な帰属を持たず、どこまでも浮遊しているのではないか。
その問に応える前に、十分にも満たない本作の導入部の、腑に落ちないもう一点について考えてみたい。同一ポジションでほぼ同時刻に切り取られた、右足を挙げているか、左足を挙げているかの差異しかない、子供を切り取った二枚の写真。それは、ある程度の時間映し続けられる他の写真と異なり、短いスパンで切り替わることで、原のこの写真に対する思い入れのなさを表出させ、坂道の上で足踏みを続ける子供の動きを生み出していく(二度繰り返される)。僕は、本作の中で、近づきも離れてもいかない、この運動する子供のイマージュに最も気味の悪さを感じた。(無表情なヌード以外の)武田の写真が提示する、(写真内に構成された関係性の)明確さが徹底的に欠如しているからだ。まずはその、あまりにも完結的な子供のムーブについて考えてみたい。
近づきも離れもせずに運動していく「かつて、そこ」の子供。それはそのまま、映画の中の「いま」、生成されていく運動の中での子供の在り方そのものではないだろうか。多くのシーンに子供が存在しながらも、原、キャメラはそこに向かって運動を試みようとはしていない。それは、「私的」なるものが「外的」なもの、社会的立ち位置、ジェンダーへの意識を持つことで初めて成り立つのだから当然である。「踏み越えるカメラ」は、だから、踏み越えるべきものを持たない子供へと眼差しを向けない。近づきも離れもせずにキャメラの中で動く子供。もちろんそこにもコードは存在し、彼らにとってもキャメラは異物なのだろう。しかし、キャメラは彼らの環世界を崩さない異物(キャメラの運動の外側では、非・環的でもあるが)であり、「踏み越えるカメラ」の内側で、踏み越えられない子供たちの完結的な世界が共存する不整合な世界が構成されていく。(アッバス・キアロスタミの「ホームワーク」などを見ればわかるように、子供にキャメラを向けることで「踏み越える」ことは可能であるが、本作において子供は幼児であり、又、武田や小林らのようにはダイナミズムを作り出せないことなどからキャメラを向ける対象となっていないようだ。)
自宅を児童託児所にしていたらしい武田が、息子と離れてまで映画に協力するはずはないだろうから、子供が画中に入り込むことは防ぎようがなかったのだろう。だが、子供のフレーム内への介入を削ることは出来たはずだ。それをしなかった(しているように見えない)のは、原≒キャメラと武田、小林の遷移の誇張を目指した為であり、皮膚の複数性を指標する為だったのではないだろうか。
子供がいることによって必然的に起こることの一つとして、洗濯物の増加が挙げられる。現に、同棲している女性との喧嘩が切り取られたシーンにおいて、武田は、洗濯物をハンガーに掛け、のばしたりしながら言葉を発していた。そして、沖縄の家や女性のコミュニティーにおいても画の中に室内干しされた洗濯物が多く映っていたように記憶している。つまり、原は(意識的、無意識的かは知らないが)、覆いを持たない者として子供を捉えながらも、着脱可能な皮膚を強く求めるアンヴィヴァレントな「他者」として子供を定着させているのだと言える。
ここで問に戻ろう。覆いの果てに覆いではない「ナニか」は存在しているのか。僕の中に予め用意されている解であるが、存在しないと僕は答える。その解を出す為に、まずは、裸体ではない皮膚を見てみよう。
海と陸とを分断する<壁>の前で小林佐智子が、武田美由紀にインタビューを試みるシーン。そこで小林は、白いシャツの上に黒いベストをはおり、黒いパンツ、手塚治虫の「少年ロック」的なつばが短くドーム(?)が大きな帽子を被っている。それは、映画関係者のステレオタイプな服装、コスプレだろう。髪を後ろで縛るのではなく、三つ編みにして前に出しているところにコスプレとしての在り方、一人の女の子の姿を、僕は見てしまう。その姿は、彼女の映画への態度であると同時に、原との関係の露出でもある。三つ編みにするという髪に対する働きかけにのみ少女性があるのではなく、被写体、「他者」である武田に対して、被写体でありながらも原、映画側にある事を提示している(と読める)ところに稚拙なロマンチスムの破片を見るからだ。
では、武田はどうだろうか。彼女は、ウーマンリブ的な発言を行いながらも、柄、テキスタイルの豊かな服装を選び続けている。彼女の服装は、第一に動きやすさを選択の条件にしているし(丈の短いワンピース)、ウーマンリブと服装の女性的な趣味(テキスタイルの豊かさを女性的と形容するのは短尺的だが)は矛盾することなく共存する。だが、ホストクラブで下世話な会話を行い、断定的な言葉を少なからず使う彼女の在り方と服装の趣味との間に齟齬がないとは言いえない。と、言うより、「彼女」と服装、つまりは、内向的であるからこそ外向的なアウトプットとの間には常に齟齬しかない。もちろん、小林も、武田とは異なる齟齬を羽織っているにすぎない。
原一男の前妻であり、本作の被写体であり、沖縄で黒人と同棲し、彼の子供を身ごもる武田美由紀。言葉の鉛によって、東京出身でないことを表明し続け、沖縄に小さいコミュニティーを持っている彼女。彼女の覆いは常に複数でしかなく、複数の皮膚と皮膚の関係は明確な断絶を持ってはいない。パソコンのウィンドウのような明確なレイヤーではなく、互いに影響を与え合う膜として彼女(僕ら)の表皮の複数はある。
ロラン・バルトを引き合いに出すまでもなく、裸体もまた、一つの衣服である。それは、内実なき武田のヌードが「日本人」、「女性」と言うフレームの外側にはない事を思い出せば十分だ。映画によって内部に「ナニか」を孕んでいくかに見えるその裸体は、純化された「個」(それがどんなものかは、僕には見当もつかないが、原の言う真実とはそのようなものなのだろう)とは程遠い、超・複数の皮膚を縫い合わせ、不断に変更しゆくノイズに塗れた表面を手に入れていくだけだ。
永遠に縫い合わせられていく皮膚。永久にたどり着けないただ一つの「私」。しかしそこに、たどり着く必要などあるのだろうか。エネルギーやコードが衝突する場、「外部」と「内部」が不整合的に共存する境界としての皮膚。それは常にある特異性、独一性を持ち、個々に異なる変換(複数の帰属、複数の帰属の不在という帰属は個々人によって異なるのだから)を行っていくのならば、絶対的なものではなく、又、正しいもの(そんなものはないが)ではなかったとしても、一つの、その瞬間だからこそ成り立つ「真実」なのではないか。それがどれだけペラペラで根拠が不在なものであっても構わない。絶対的帰属の不在によって初めて手に入る表皮。それは、純化されることのない不純さで成立し、だからこそ、開かれたものである。僕たちは、表面にとどまることを恐れるべきではない(表面にとどまる事とはつまり、その不整合な共存が生み出す運動や、新たな記号や概念、共同体らが縫い合わされていくプロセスを見つめることなのだから)。
原一男が、表層の内側にある真実を本当に信じていたのかどうかはわからない。ただ、本作の中では、それを「信じている」かのように振る舞ってはいる。その振る舞いの舞台とならざるを得なかった沖縄。原は、1970年、71年当時のハイブリットなその環境、「国」や「人種」の非・単一的な展開を、純粋なる「個」を強調する為に喜んで利用したのではないか。しかし、どれだけ用意された帰属の「外」を目指しても、いや、目指すからこそ既にある帰属、あるいは、(特定の環境下における)帰属の不在という帰属の在り方が浮き彫りになってしまうのではないだろうか。プライベートとは見られる事によって初めて表出し、いつでも「外部」の存在との相互作用の中にしかない。本作の「極私的」な強度とは、1970年代の沖縄と言う多元的環境でありながら、ある種の明快さを持った状況の内側にあることに支えられている。
僕はしかし、「表層の内側に真実などない。よって、本作は間違っている。」などと言う愚直なテーゼを述べる気は毛頭ない。そんなのなくたって構わないし、なくても本作は、キャメラの眼差しによって初めて捉えられる、根拠の不在ゆえに関係性が強度を持って崩壊/構築されていくスリリングな瞬間の運動体であり、優れた作品である。いや、「真実などない」からこそ、本作は感動的なのではないだろうか。「外部」が存在し、僕らはその中でしか生きていないのならば、「個」が純粋に存在しえる(「死に至る病」)事も、関係性のなかにノイズが存在しない(あるいは、不純物の純化)状況などありえない。しかし、その純化した「個」、つまりは、真実と呼びうる様な「個」の在り方を目指すことは禁じられてはいない。純化した「個」と言う存在しないもの。そこへと向かっていく原≒キャメラの眼差し。それは到達不能な地点へと向けられた野蛮さを孕んだ運動であり、不可能だからこそ感動的である。
※気が付けば一万文字ペースで書いてしまっていたので、クソ長くなってしまった&長くなりすぎるので大幅に端折ってしまいました すみません
イトウヒロタケ
本能vs本能(極私的エロス・恋歌1974)
カメラを回し、相手の内部をえぐり出す。同時に自ら傷つけられつつも欲求を満たしていく。
多少の口論じみたものはあっても、よくもまあこんなに冷静に話が進んでいくものだと思いながら見ていた。人はここまでずけずけと自分の間合いの内側に入られて正気でいられるのだろうか?普通の人ならプライバシーや常識のあるレベルをこえれば拒否感を示すだろうし、撮影者自身も罪悪感にさいなまれるのではないか。それが無い。全く感じられなかった。ゆえに普通ではない、狂気じみている。発端が武田さん側から申し入れた事なので拒否はされなかったものの、一触即発でいて何も起こらない、起こったとしても見る側の中で不完全燃焼になってしまうような、ある種の異様な空気がこの作品を覆っている。少なくとも僕はそう感じた。
完全に観客は無視され、原さんと武田さんの世界のみ繰り広げられる。
制作する以上公開することは考えられているだろうがそれは二の次であり、目指す所は究極の自己満足である。その意味で「極私的」なのだろう。
獣のように自分の欲求に素直で、なりふりかまわずそれに向かって前進する武田さんとカメラ(原さん)との間合い。そこにはもはやはばかるものは何も無い。
まるで原さんが武田さんという人物を理解できない事にいらだちを覚え、怒り、鬱憤をはらそうとしているかのごとく凶暴に詰め寄っていく。
そうやって感情の赴くまま忠実にカメラを向け、制作のことなんて後回しにしてるんじゃないかというくらいただ己の欲望を満たす事のみに正直だった原さんが、皮肉にも純粋に映画に身を捧げ、作品というものに最も献身的に恥も外聞も捨てて真摯に向き合っているように見えた。
案外、制作の本質は知的でも理性的でもなく、獣じみた己の衝動という本能的なものなのかもしれない。
河城貴宏
2011年6月19日日曜日
欲望 不快であって更に感動的
2011年6月18日土曜日
極私的エロス・恋歌1974 k.k
2011年6月2日木曜日
2011年5月13日金曜日
2011年4月26日火曜日
2011年4月23日土曜日
お久しぶりです。ちょいと。
ちなみにこのLabの提案した根本的なアイデアに一言あるなら、CS-labのアカウントに直接。
なおかつ、仮にですが、時間ある人、CS-Lab会議に直接。
@TZUCSLab
http://tzu-cs-lab.blogspot.com/
2011年4月22日金曜日
柏屋拓哉 ゼミレポート
私は卒業制作でこの事を痛感しました。演技を拒否されてしまったのです。私は最初なぜ演技を拒否されてしまったのか全くわかりませんでした。しかし、今に思えば脚本を一切書くことなく加えて意図さえも相手に伝えることを放棄していました。これは暴力と表現されてもおかしくない行為でした。自分は相手から攻撃されない安全な場所へと閉じこもり相手を危険な場所へ向かわせていました。これは作家として恥ずべき行為だったと自分では感じています。共に制作するという事を完全に忘れてしまっていたのです。私がやるべきだったのは相手と共に危険な場所へと向かう事か相手を安全な場所へと導くことだったのです。この経験を通して共に作るということが私の最大のテーマに成りました。映画は一人では決して制作出来るものでは有りません。敢えて危険な言葉を使って言いたいです。映画制作で最も気にするべきなのは「道徳」ということです。
諏訪ゼミナールとしての総括というか感想に成りますが個人的にはとても良いゼミだと感じる反面危険だと感じる部分も有りました。映画の生徒が多い事もあって自分も含めてですが作家と被写体の関係についての議論が中心になっていましたが私たち作家が作品を見せるのは他の作家(そういった作品が存在していますし重要だとも感じますが)ではなく、無差別な人間ということです。私達には無差別な人間の視点という物を鍛えていかなくてはならないのでは無いでしょうか?
文章を書くのが下手という事も手伝ってかなり遅いレポートとなってしまい申し訳有りませんでした。ですが、拙い文章(誤字脱字があったらすみません)ですが皆さんに読んでいただけたらと思います。
p.s.また、ゼミの皆とお酒が飲みたいです(笑)
2011年3月2日水曜日
ゼミレポート 木舩理紗子
2011年2月15日火曜日
諏訪ゼミナールを振り返って 古澤淳
2011年2月14日月曜日
2011年2月13日日曜日
狩野嵩大 諏訪ゼミレポート
諏訪ゼミナールにおいて、最も重要な時間は対話の時間であった。
それぞれがどのような議題を抱え、何を話したいか。そうした中で生まれたテーマが「生活と制作」であったと思う。
諏訪ゼミナールにはゼミ展というものが無い。それは結果的に非常に良かった。展示に向けるべきエネルギ−が純粋に対話の内容に向かったからである。そうした純粋さは結果的にペドロコスタ監督、黒沢清監督の特別講義をひらくという方向に向かった。この二つの特別講義は、何故開かれたのか。それもやはり純粋に聞きたいことがあったからである。ゼミ生同士の間に生まれる対話によって、個々が抱える疑問はより研ぎすまされ、明確になると同時に大きく膨らんで行くことになったのだ。
私がこの一年間、様々な人との対話を通して強く心に残ったのは、誰も映画の話をしていない。ということだ。いや、映画の話をしていないというのは語弊があるかもしれない。「映画とは」「ドキュメンタリーとは」という話はなかったということである。それと同時に「こうあるべき」「そうでなくてはならない」というものもなかった。そのせいか、映画の話をしなければならない、ということもまた、無かったのである。統一された価値観が無く、全員が団結して目指す目的なども無いということは、自由である一方、危険でもあった。そんな状況での特別講義では、ゼミ生(少なくとも私は)はペドロコスタ監督や黒沢清監督に対して心酔して、好きだから話をしたいと思ったわけではない。そこには常に「疑う」という気持ちがつきまとっていた。例えば、ペドロコスタ監督特別講座の終わったあと、締めの挨拶で諏訪教授が言った台詞が印象的だ。「人には一生携えていく言葉というものがある。そうした言葉を今日聞けた人もいるのではないだろうか」こういった内容の挨拶であった。携えるとは何だろうか。私自身、ペドロコスタ氏の言葉をいくつも覚えている。そしてその言葉を何度も反芻し、問うているのだ。それは疑うことでもあり、自分との「対話」でもある。
もちろん、諏訪敦彦教授の言うことも何の疑念も無く聞いていたわけでは無い。諏訪ゼミナールではそこで生まれる疑念を、解消できるチャンスが与えられていた。それも「対話」なのだ。
さて、この一年間つきまとっていたテーマ「生活と制作」についても、私は様々な疑念を抱き、対話を重ねた。といっても、「生活と制作」というテーマは非常に広大なテーマだ。少なくとも私の大学生活においては、生活、そして制作、それら二つが全てと言っても過言では無い程なのだ。しかし、ゼミ生の中では「生活と制作」というテーマはしっくりときた。それ以外無いのではないかという程にしっくりきていたのだ。私はそのしっくりくる感覚に全ては凝縮され、またそこから拡散していくのだとも思う。
ゼミ生のするバイト先の話もふとした話も社会問題についても、全ては私たちの生活と制作に関わっている。この一年間で交わした対話は、私たちの生活の中で拡散し、制作によって収束する、またはその逆もありうる。
諏訪ゼミナールで生じた対話はそのように私の中で息づき、しっかりと根を張った。
最後に、この一年間諏訪ゼミナールに関わってくれたゼミ生、ペドロコスタ氏、黒沢清氏、そして諏訪教授に感謝の気持ちを伝えたいと思う。しかし、そんな感謝の気持ちもこの場に書き表すことは難しいだろう。ここに書くべき感謝の気持ちは私の今後の人生の中で、生活と制作の中で伝えなければならないとも思う。
2011年2月9日水曜日
諏訪ゼミナールレポート 相田麻実
黒沢清監督の特別講義で「人間とは一貫性が無いものだ」と黒沢さんがおっしゃったと記憶していますが、そのことがなぜか私の中でとても印象に残りました。当たり前と言えば当たり前の事のような気もしますが、目から鱗というか、とても勇気づけられました。
物語の中では人間は一貫性があるように描かれることが多いと思うし、一貫性を持たせる為に作り手は一生懸命実在しない人物について思いを巡らせることもあると思います。私は映画の中の「人間」について興味があまりありません。それは黒沢さんの言う「人間に興味がない」というものと一緒ではないかもしれませんが。。
人間について興味が無いのに、映画を作ろうと思うと必然的に人間を出さなくてはいけなくて、私にとって人間を描くということはとても悩ましいことでした。しかし、この「人間とは一貫性が無いものだ」という発言により、私は人間を描くのに興味が無いのではなく、人間に無理やり一貫性を持たせる、という行為に興味がないんだと知ることができました。こういった事は一人で考えていても辿り着かなかったと思うし、今回の特別講義のおかげだと思います。
話し手のフルサワ君お疲れ様でした!楽しかったです。ありがとうございました!
私は前期も後期も、たまに出席しては何も発言せず帰るということが多かったと思います。みなさんが映画について話し合いをしているのを聞いて、私が知っていたはずの映画がどんどん遠くなっていくように感じたこともありました。この経験は私にとってとてもショックな経験であり、自分は今まで「映画」について何を感じ、何を面白いと思ってきたのか混乱してしまいました。
しかしその混乱は私が知りながらも避けていたことだったと思います。あまりゼミに参加しなかったにも関わらず、諏訪ゼミでのことがいつも頭の片隅にあり、嫌な言い方をすれば目の上のたんこぶのような存在でもありました。しかし嫌でも向き合わなくてはいけなかったことだと思います。
このゼミでの出来事を糧に、映画以外のとこについても改めて向き合い、考えていけたらと思います。
まともにゼミに参加していなかったのに、たまに出席した際に授業の進み具合や状況を説明してくだっさった方々、本当にありがとうございました!諏訪先生もありがとうございました。
では失礼します。
2011年2月1日火曜日
深田隆之 諏訪ゼミのレポート
私は、諏訪ゼミでドキュメンタリーを中心に映画というものを考える中で、映画を作るスタンスについて考察する機会を与えられたように思います。
ゼミではドキュメンタリーを中心に様々な作品を鑑賞し、作品について、また映画を制作するということについて議論を重ねました。そこで徐々に気になっていった主題が、映画の制作者が自分の作品とどういった関係性を取り結んでいくかということでした。例えば、土本典昭さんは膨大な時間を費やして水俣病とその周辺の人々と関係性を結び、その関係性から映ったなにかを作品として世に呼びかけているように思いました。ペドロコスタは、映っているものに何も望まず、カメラが受け皿となって、映っているもの・ことを掬い上げているように見えました。名前を挙げた二人の監督のスタンスは、おそらく全く異なるものだと思います。また、フィクションとドキュメンタリーという、いわゆるカテゴリーとしても二人は異なる土俵に立っています。ただ、私にはそのようなカテゴライズや映し方に関係なく、個人的な感覚・感情が見えるという点で共通しているように見えました。(それをなくすということはどの作品でも無理なのですが)そこでは、カテゴリーという括りは見えず、映っているものと、カメラの後ろに立っている監督の「影」のようなものが映り込んでいるように見えました。その「影」は、作家性とは全く異質のもののように思います。
しかし、映画を撮っている私はそこで立ち止まってしまいました。4年間いわゆるフィクションの映画を撮り続ける自分にとって画面に映るものと関係を結ぶということはどういうことなのか。例えば自分自身の身の回りのことを映し映画と関係していくのか、例えば役者というものと対話しながら、役者としてではないそこに映る人間と関係していくのか…。常に考えていたようで明言できないこの問題を改めて突きつけられた気持ちでした。卒業制作を制作していたということもあり、その考察と脚本を行き来していました。
そのタイミングで行われたのが黒沢清監督の特別講義でした。黒沢監督の、「人間についてはわからない」「映画というものには人間以外のものも映っている。それらすべてが映画なんだ」「役者だけでなく、様々なスタッフの仕事が映画を作っている。その仕事がないとスタッフは失業してしまう」といった言葉が印象的でした。私は、この講義に対し、考察したというよりは反射的な感想として、それも映画なんだ、それでいいんだ、というどうしようもない感想を抱きながら話しを聞いていました。
自分が映そうとしたもの、見ようとしたものとの間には、嫌でも関係性が生まれる。それが空間であっても、役者であっても、画面に切り取られた自分や自分と身近な人であっても、それがなにかは重要ではないと感じます。自分が見つめるものと真正面から対峙するということにおいて、映るモチーフはなにか、形式はどんなものなのかは関係ないのかもしれません。ペドロも、アピチャッポンも、黒沢さんも土本さんも、彼らが見つめた「なにか」との関係性から形式が生まれたのだと思います。
そう考えると、以前、「ヴァンダの部屋」についてのインタビューで言っていた、なぜ画にその色合いが出せるのかという質問に対するペドロの回答がほんの少し理解できます。
「自然にそういう色になっていったんだよ」
ほんの少しだけです。あくまでも。
どっちつかずなはっきりしない感想です…。
2011年1月30日日曜日
勝河泰知 ゼミナールレポート
諏訪ゼミナールレポート 隈井麗子
このブログのコメント数などからも分かるように、私は正直このゼミにあまり積極的に参加することができませんでした。
教室で議論をしている時も、「みんななんだか難しいことを考えているのね」というような感じで、こんなことを書いたら四年間何をやってきたんだと怒られてしまいそうですが、私は映画的に〜、だとか、〜の構造が、とか、そういったものにほとほと嫌気がさしてしまっていたように思います。
今だから書くことができますが、そうした議論に順応できない自分と皆との差異に悩んだ時期もありました。あるいは、それは今も続いているのかもしれません。
ただ、皆の議論を聞いていて私自身が何の興味も感じず、考えなかったかというと決してそういうわけではなく、時たま言いようのないモヤモヤを感じてしまう時もあって、そんな時、拙い言葉をたぐり寄せてやっと吐き出すと、皆予想外にその一言をひろってくれるのにドキドキしていました。
ある日一本の映画作品を見て議論した後(もちろん私は終始ぽかんとしていた)電車の中でゼミの友人と話をしていて、思わず私が「私は馬鹿だから、全然意味わからなかった!眠たくって、何が映画的ですごいのかとか、わかんなくて、腹たつ!」というようなことをこぼしてしまったことがありました。
友人はごく真剣な顔つきで、全く嫌味なく「隈井さんはそれでいいと思うよ」と返してくれました。
分からない自分に自己嫌悪を感じる必要がないということは分かっていたし、それからの私の「映画的な」ことに対する見解が大きく変わったわけではありませんが、授業とは離れたいつかどこかの電車の中でのこのやりとりが、私にとってのこのゼミの存在を一番象徴していたように思います。
これから受講する学生のために少し付け足すと、当初、私は諏訪ゼミ=ドキュメンタリーという認識を持って履修しましたが、今思えばドキュメンタリーだけに限った内容ではなかったように思います。
それよりは、今まで自分たちが当たり前にカテゴライズしていた『ドキュメンタリー』『フィクション』という言葉の概念を改めて疑ったり、『映画』というものの在り方に対して様々な角度から考える機会と言った方がいいような気がします。
個人的には、諏訪先生の社員時代の幻の企業VPや金沢のこども映画教室の記録を観ることができたのが素直に面白かったです。
特に教育としての『映画』はまだまだ議論されていない分野ですし、(というよりそもそも映画を教育にぶち込むという考えに今まで及ばなかった)実際にリアルタイムで映画教育を受けている立場だからこそ考え得る、提案できることが沢山あると思います。
なんだかレポートというよりは私的な感想文のようなものになってしまい、すみません。
やっぱり小難しい文章を書くのは柄じゃない、というか苦手ですが、一年間こんな私を仲間に入れてくれた諏訪先生とゼミの皆さんに心から感謝しています。
あまり関係ありませんが今月15日の追加講評会で私の卒業制作を発表できると思います。
よろしければ皆さん是非いらしてください。
あと、田村くんも言っていましたが、飲みたいですね。では。
2011年1月22日土曜日
諏訪ゼミナールレポート
田村 基
諏訪ゼミナールでは前期、後期に亘り「ドキュメンタリー」をキーワードに全体で研究しました。作品研究、ゲストを交えたシンポジウムの企画、特にそこに居合わせる人との対話を中心としながら「ドキュメンタリー」という言葉を展開しました。この対話は「ドキュメンタリー」をより深い考察と斬新的な発想へと導いたように私は思います。具体的にはドキュメンタリーがフィクションに対立する概念、歴史的背景、映像表現の方法論に依存しないかたちで、個人が抱える問題、感情を中心に私と「他者」に映画を介在させたシンプルかつ根源的な関係を新しくしたからです。映画を発端として個人の価値観で考えを述べ、対話することで結果的に「他者」を知ることが、翻って映画の多様性を豊かにし、個人の価値の多様性を強固にするというのは行き過ぎた幸福な話ですが、実際そのことが可能になっていたのではないでしょうか。ペドロ・コスタ先生のおっしゃるとおりドキュメンタリーとフィクションの違いは明確ではありません。しかし「ドキュメンタリー」に付随するリアリティーと現実と世界と人間と生活と~と~と~という言葉や概念によって映画を「かっこづけ」せずに対話し、より新しい方法で映画を世界接続し、拡張し、翻って世界を豊かにする可能性を、という呼ぶより、気概を打ち出したのではないのでしょうか。
この気概こそがドキュメンタリーだと私は名づけたい。
という話はまぁあれとして、今後も折を見てみんなで映画を見たり、話したり、お酒をのめたらなんでもいいです。おつかれさま!また会いましょう!