私たちが所属する、東京造形大学諏訪敦彦ゼミナールでは、ドキュメンタリー映画研究を主軸に、日々、ディスカッションを行っている。その中で、度々、「見る」事の道徳性と倫理性の差異が大きな問題となる。自身が所属する共同体が規定する視線と、自身を超えて存在するものによって形成されていく眼差しとの差異。それは、単純な二元論に還元できるものではなく、ディスカッションは常々、堂々巡りの様相を帯びていく。
そして、そこで語られる言語は、なし崩しの共同言語<らしき>ものに彩られてしまっている様に(さえ)見える。だからこそ、私たちの言語は、「他者」の視線を必要としている。共同体によって規定された言語を変換していく為に。
自身との間に共通の言語を持たない他者に対して言葉を発する事。雑誌という形態の選択は、流通の中にいる不可視の他者と向き合おうとする試みである。そこには常に、誤読される不安が孕んでいる。しかし、その不安の中にしか、「他者」は存在しないのではではないか。いや、届かない(かもしれない)事、ディスコミュニケーションを前提とした上で初めて、「他者」が意識され、届けようとする意志、翻訳という行為が誘発されうる。自身の思考を、「誰か」に向かって投げかける運動としての翻訳とは、自らの思考を咀嚼し、変容させる。そして、その翻訳行為の中に、「他者」のみならず、自身の(流動的な断片の)発見があるのではないか。
伝えるとは、教える事でもある。そこでは、いや、どんな状況においても関係性は常に、非・対称(ディス・コミュニケーション)でしかない。しかし、翻訳という行為の中で、発話/記述者は、教える者でもあると同時に、学ぶ者としても存在していく。あるいは、非・対称な関係を自覚し、その落差を意識することで初めて、(翻訳のみではなく)アクションを可能にする空間が立ち上がるというべきだろうか。自身の思考の、自身が気づかなかった側面を、眼前にいるーもしくは、いないー「他者」のあり方を、言語のトランスレーションの中で見出していく。そこで初めて、自身の思考、価値だと信じるものが、疑うべきモノとして現れ、自らの評価軸なるものの(再)構成が開始されていくのではないか。それは、われわれにおいてのみならず読者においても言える事だろう。なぜならば、非・対称な者同士のコミュニケーションとは、常に、ただ単に一方通行なのではなく、双方向に向かって、一方通行なのだから。
本誌では、インタビューや座談会を通して、監視カメラ等の非主体的な視線に取り囲まれた現在の中で、どこまでもミクロで、責任―視線の暴力性―から逃れられない「主体」的な眼差しが、「ナニ」を見つめていく(べきな)のかを考えていきたい。それが、常に「私」を超えて存在している「世界」の断片、眼前を捉えるしかないキャメラを抱え、(暫定的でしかない)評価軸を内在したわれわれの、立ち位置・立ち方の探求の指標となる事こそを目指して。
眼前の「他者」と向きあう事。見えない他者に向かって言葉を発する事。それに伴う翻訳行為を主軸とした雑誌の制作と流通。それが、「世界」や「他者」に対して、倫理的であろうとする意志を内包していると信じている。
「報道的なドキュメンタリーではなく、個人的なドキュメンタリーとはどの様に可能かを考えるものとしての「今日」のドキュメンタリー。」吉増剛造との対談の中での、ホンマタカシの言葉である。その言葉は、「吉増さんの(Gozo cineの)中にその答えがあると言ってもいい。」と、続く。
ホンマタカシが自身の展示のタイトルにもした「ニュー・ドキュメンタリー」なるもの。それはつまり、個人的で、「今日」だからこそ可能な、ドキュメンタリーを指し示しているのではないか。
吉増剛造の様に、イメージ(名前や図像)を所有するのではなく、積極的にイメージに所有されようとする態度の中に。中立的、超越的な視座を徹底的に拒否し、ミクロな立ち位置を保ちながら、分類の対象であるモチーフ、眼前にどこまでも巻き込まれながら図鑑を作ろうとする、(ホンマタカシが敬愛してやまない)中平卓馬という写真家の矛盾したポジションが指し示す姿勢に。シャッターを切る事=作家性という愚直な構図から距離をとり、自身が撮影し来た写真だけではなく、自身が撮影して来なかった写真をも介入させることで、生きたものとしてのデータベース、「世界」という不可視の形式を立ち上げようとするホンマタカシの「ニュー・ドキュメンタリー 展」のあり方に。「今日」の、個人的なドキュメンタリーの可能性が内在しているのではないだろうか。
「ニュー・ドキュメンタリー」という言葉を一つの主題に、ホンマタカシ、諏訪敦彦らによる座談会。ドキュメンタリー映画の「今日」的な在り方、「他者」や「世界」に向けられた眼差しの在り処を探る為の、山形国際ドキュメンタリー映画祭の出品作家へのインタビュー。ダンスビデオの制作者やダンサーを迎えての、身体と映像の「現在」に向けられた座談会。その他、ゼミ学生による企画、文章(論文、エッセイ)によって、本誌を構成していく。
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