書く事が無い。自分の言葉で書けることが無い。とレポートをかく段階になって気づいたのでそれについて書きます。
振り返ってみると、いつだってゼミの論議がうまく滑りだした事はなかった。多くの場合そのような時は、ある時は、ある種の世代論になり。ある時は、「自分の場合」と、自身の作品や撮影方法、体験と結びつける形で各自が語りだしたり、まったく関係の無い個人の生理的な感覚から端を発する形で議論が進んでいったこともあった。ごく初期には、そういった場合になるにつけ、(この映画から話そうよ)と感じていた自分がいた。しかし、結局後期に近づくほど、いやかなり早い段階からそういった所から発生する議論のほうが自分にとってもおもしろく、建設的だった気がする。いや、単純にそういう皆の話を聞くのが凄く好きになっていった。自分は、自らの言葉に、あまり自分が映りこんではいない事が一つのスタンスであり、このゼミでの役割だとはじめは勝手におもっていたのだけれども、だんだんと発言の声が小さくなっていったように感じている。まあそんな「小さな話」事はどうでもいいので後で書く事にする。
大文字で語られるべき問題意識にそってではなく、個人からの見方がなぜ面白いと感じたのか、またそこにいかがわしさを感じ無かったのか。それは皆が作品と、あるいは作品を通じて語られている世界と自分なりに「関係」しようとすることで言葉を探していたからかもしれない。例えば撮影において、撮り手が対象と結ぶ関係とは、対象との友好関係うんぬんのことではない。時には対象を搾取的に扱いながらも、搾取的にというより、撮り手が、どうしようもなく対象を愛していたり、あるいは怒りを感じていたりと、要するにエネルギーを貰っているであろう作品に私達はいかがわしさを感じない。観客として語る言葉も同じではないだろうか。今、時代的に語るべきとされている問題意識に、あるいは映画の美学的な視点にあてこんで選択された問題ではなく、作品からを見てうけたの反応を、関係可能な問題として提出することは、結果的に多種多様な作品を作品から作り出す。(勿論、自身の視点には限界がある。それを跳躍したところからの言葉、なにがしの知識体系、からの言葉も無論同時に重要ではあると思う。が、自分はそこまで行けなかった。)
時には、映画の上映とトークショーにおもむき、作家と飲み交わすことさえ通じて、議論は重ねられる。作家さえ、作品について饒舌に語ることはなく、できてしまった「作品」を前にして、僕らと曖昧な議論を重ねた。そしてそれは刺激的だった。
という事で自分の話になる。
さきほど、「だんだんと自分の言葉が小さくなっていった」理由だが、結局それらの言葉は批評界隈から借りてきた物にすぎず、あまつさえ、そのふるった言葉の裏側にうすっぺらな自分を張りつけてるようにも思えたからだ。(今じゃそこまでは思ってないが)ペドロの時などは、会場に来てくれた人達ほど、自分自身が思いをこめた質問をペドロにできるだろうかという疑念にかられ、半ば自分に失望もしていた。
映画をめぐる議論において、何ひとつとして、決定される何かが無いのは知っていた。境界線をさぐる事自体が意味が無いのはわかっていた。いや、それを放り出す事が一番意味が無いこともわかっていた。”フィクションかドキュメンタリー”でなく、その間にある、”か”について、煩悶し、問いつづけることに意味があるとのっけからわかっていた。しかしそれはわかった気分だった。本当に自分はそうしていただろうか?本当に問い続けるとはどういう事なのだろうか?クエスチョンのままでは意味が無いのにそこで止まっていた。この事に対して、撮る人間、ショットを繋ぐことに悩んでいる人間を間近に見たり、映画をみたり、現代美術界隈の友人達の話を聞いて、あるいは自分の個人的な失敗を通じて、なんとなく答えがでてきた。そもそも、そういった問題は、実際皆わかっているわけで、しかし「自分」をそこにもってくる。私の映画はフィクションだと言いきる、(例えば佐藤真さんは、それを"フィクションに留まる矜持"と言っていた)あるいはドキュメンタリーだと言い切る。それは他者との差異化を求めているわけでは無く、「覚悟」なのだろうと感じた。あるいは田村君の言った、「気概」だろうか。この一年、いろんな気概を見た。自分から企画を立てる事、友人を映画に使う事、そしてそのシーンを切ること、こんな映画わからん。と言い切ること。スタッフに今日の交通費出ません。と言い切ること。そして撮影でカット!と言うこと。その「覚悟」を底にしいた自分の行動がある事で、問題を疑問として加速させる。
「ああ、ああいった覚悟を乗り越えて、よけいに自分で手に負えなくなっているような言葉達に対しては、こちらも覚悟をもった言葉が無いとダメなんだな別にダメじゃないんだろうけど、引け目を感じる理由だろうな、」と。気概が無かった。まさか諏訪ゼミのレポートがこんなにも纏まらなく、あれほど避けていた「自分の話」に留まる内容になるとは思わなかった。とにかく気概を持って今後、世界と関わっていこう。それだけだと思う。
一方的な感情ではあるかもしれませんが、ここでの時間を非常に愛していました。おいおい、窓ぐらい無いのかという密閉されたゼミ室。それに答えるかのような一回きりのカフェでのゼミ、愛知トリエンナーレでの道中の会話や飲み屋でのちょっとした意見の食い違い、ポレポレ、ユーロ、フィルメックスで映画を見終えた後の議論など、生きてたと思える時間でした。映画はある時期、僕にとって人生のアリバイのような失礼な接し方をしていましたが、あの時間は違いました。気概をもって感謝します。ありがとう。
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