2011年2月1日火曜日

深田隆之 諏訪ゼミのレポート

私は、諏訪ゼミでドキュメンタリーを中心に映画というものを考える中で、映画を作るスタンスについて考察する機会を与えられたように思います。

ゼミではドキュメンタリーを中心に様々な作品を鑑賞し、作品について、また映画を制作するということについて議論を重ねました。そこで徐々に気になっていった主題が、映画の制作者が自分の作品とどういった関係性を取り結んでいくかということでした。例えば、土本典昭さんは膨大な時間を費やして水俣病とその周辺の人々と関係性を結び、その関係性から映ったなにかを作品として世に呼びかけているように思いました。ペドロコスタは、映っているものに何も望まず、カメラが受け皿となって、映っているもの・ことを掬い上げているように見えました。名前を挙げた二人の監督のスタンスは、おそらく全く異なるものだと思います。また、フィクションとドキュメンタリーという、いわゆるカテゴリーとしても二人は異なる土俵に立っています。ただ、私にはそのようなカテゴライズや映し方に関係なく、個人的な感覚・感情が見えるという点で共通しているように見えました。(それをなくすということはどの作品でも無理なのですが)そこでは、カテゴリーという括りは見えず、映っているものと、カメラの後ろに立っている監督の「影」のようなものが映り込んでいるように見えました。その「影」は、作家性とは全く異質のもののように思います。

しかし、映画を撮っている私はそこで立ち止まってしまいました。4年間いわゆるフィクションの映画を撮り続ける自分にとって画面に映るものと関係を結ぶということはどういうことなのか。例えば自分自身の身の回りのことを映し映画と関係していくのか、例えば役者というものと対話しながら、役者としてではないそこに映る人間と関係していくのか…。常に考えていたようで明言できないこの問題を改めて突きつけられた気持ちでした。卒業制作を制作していたということもあり、その考察と脚本を行き来していました。

そのタイミングで行われたのが黒沢清監督の特別講義でした。黒沢監督の、「人間についてはわからない」「映画というものには人間以外のものも映っている。それらすべてが映画なんだ」「役者だけでなく、様々なスタッフの仕事が映画を作っている。その仕事がないとスタッフは失業してしまう」といった言葉が印象的でした。私は、この講義に対し、考察したというよりは反射的な感想として、それも映画なんだ、それでいいんだ、というどうしようもない感想を抱きながら話しを聞いていました。


自分が映そうとしたもの、見ようとしたものとの間には、嫌でも関係性が生まれる。それが空間であっても、役者であっても、画面に切り取られた自分や自分と身近な人であっても、それがなにかは重要ではないと感じます。自分が見つめるものと真正面から対峙するということにおいて、映るモチーフはなにか、形式はどんなものなのかは関係ないのかもしれません。ペドロも、アピチャッポンも、黒沢さんも土本さんも、彼らが見つめた「なにか」との関係性から形式が生まれたのだと思います。

そう考えると、以前、「ヴァンダの部屋」についてのインタビューで言っていた、なぜ画にその色合いが出せるのかという質問に対するペドロの回答がほんの少し理解できます。

「自然にそういう色になっていったんだよ」

ほんの少しだけです。あくまでも。



どっちつかずなはっきりしない感想です…。


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