ニュードキュメンタリーとは作者自身の制作して生きてきた過程を自身の作品の中から見せていくものである。その中で提示されてくる作品それぞれ個々には特に独立した大きな意味は無く、はっきりいって作者の意図する、見せたいと思う「過程」が見えるものであるならば何でもよい。個々が完成されている必要も無く、全体として大きな枠で見て一定の一貫性があるならば成立する。例えばホンマタカシさんのニュードキュメンタリーは、ホンマさんとホンマさん自身がフレームを選び取った写真をもって構築したものである。ここで展示される作品群はいくつかのグループに分けられるが、長短はあれどそれぞれがまとまった時間の流れを感じさせる。それはまさにホンマタカシさんが生きてきた時間なのである。
Tokyo my daughterは知り合いの娘を撮ったものであるが、撮影者としてのホンマタカシが友人の娘を何年も撮り続けたというドキュメンタリーでもある。ファウンド・フォトを織り交ぜたのもそれ自体が、織り交ぜたという行為のドキュメントである。世界中のマクドナルドの写真は、今までその地を踏んできたという証である。
ニュードキュメンタリーは目に見える形で直接的に訴えることはなく、羅列された作品の背後から浮かび上がってくる。別々の意図、場所、時間で撮影された写真から、ホンマタカシという人間を描いている。作者自身やそのまわりの人間に直接カメラを向けて脇目も振らず踏み込んで深く追求したりはしないが、セルフドキュメンタリーともいえるだろう。
作品自体よりも過程という意味では映画でいうメイキング映像が映画本編を喰ったような形である。
河城貴宏
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