原一男と夫婦関係にあった、又は、夫婦関係になる前の武田美由紀のモノクロ写真。「極私的エロス・恋歌1972」は、それらの写真の構成的展開の上に、原のモノローグが被さり起動していく。
作品内でのそのシークエンスの役割とは、「今」はなき「かつて」の関係、沖縄で暮らす武田の元に向かう原の動機の(独白を通しての)提示であり、キャメラと言う異物を通したコミュニケーションによって変容していく関係性の強調である(「かつて」を認識させることで「今」生成され行くアクションをより動的にする)。
自宅であろう室内でカメラ(多分、原が撮影者である)に向かって微笑みかけたものや、原との間に生まれた、毛布に包まれた子供を愛おしそうに見つめている武田美由紀を切り取った写真。それらのイメージは、きわめて凡庸であり、原のモノローグが被さることで、既にない「家族」の姿を浮かび上がらせていくに過ぎない。すべての写真が上記の様な明確なイメージであったならば、これ以上そこに言及する必要はないのだろう。しかし、僕はもう少しこの冒頭のシークエンスについて考えなければならない。
タイトルにある「極私的」とは、セクシャリティー(衣服等の覆いの内側)の露呈こそを指し示している。セックスや出産を切り取ったシーンが本作の構成の中で高いウェイトを占めている事からもそれは明らかだ。
ここで、写真とモノローグによる冒頭のシークエンスの冒頭を思い出したい。証明写真の顔を思わせる無表情さを持って切り取られた、武田の表情に寄ったキャメラ。キャメラは、少しずつ引いて行き、武田の全身をスクリーンに投影していく。無表情な顔の下の裸体(この写真だけは、この映画の為に撮られたものだと考えられる)。「極私的」であるはずの裸体は、この写真のなかでプライベートなものとしては存在していない。裸体をさらしている相手、カメラとの関係が機械的かつ不明瞭であるからだ。ここでの裸体は、何も内包せず、「裸体である」という凡的事実を体現しているにすぎない。原は、内実なきヌードを作品の導入とすることによって、(原の言うところの)「アクション・ドキュメンタリー」、キャメラを使った関係性の(脱)構築によって内包されていく「ナニか」を引き立てようとしているのだと言える。しかし、それは成功しているのだろか。何よりも、覆いの先に「個」の姿、真実と呼ばれるものが存在しているのだろうか(諏訪さんがディスカッションの中で「集団から個へとドキュメンタリーの焦点がシフトした 略 個の中に真実を見出そうとした。」と言っていた通り、原が人の内側に真実を見ていたのならば)。機械的なこの裸体は、「日本人である」「女性である」と言った用意されているフレームを予め持ち、映画の運動の中で確かに「ナニか」を内包していくように映る。しかしこの、無表情な裸体としての武田美由紀は確実な帰属を持たず、どこまでも浮遊しているのではないか。
その問に応える前に、十分にも満たない本作の導入部の、腑に落ちないもう一点について考えてみたい。同一ポジションでほぼ同時刻に切り取られた、右足を挙げているか、左足を挙げているかの差異しかない、子供を切り取った二枚の写真。それは、ある程度の時間映し続けられる他の写真と異なり、短いスパンで切り替わることで、原のこの写真に対する思い入れのなさを表出させ、坂道の上で足踏みを続ける子供の動きを生み出していく(二度繰り返される)。僕は、本作の中で、近づきも離れてもいかない、この運動する子供のイマージュに最も気味の悪さを感じた。(無表情なヌード以外の)武田の写真が提示する、(写真内に構成された関係性の)明確さが徹底的に欠如しているからだ。まずはその、あまりにも完結的な子供のムーブについて考えてみたい。
近づきも離れもせずに運動していく「かつて、そこ」の子供。それはそのまま、映画の中の「いま」、生成されていく運動の中での子供の在り方そのものではないだろうか。多くのシーンに子供が存在しながらも、原、キャメラはそこに向かって運動を試みようとはしていない。それは、「私的」なるものが「外的」なもの、社会的立ち位置、ジェンダーへの意識を持つことで初めて成り立つのだから当然である。「踏み越えるカメラ」は、だから、踏み越えるべきものを持たない子供へと眼差しを向けない。近づきも離れもせずにキャメラの中で動く子供。もちろんそこにもコードは存在し、彼らにとってもキャメラは異物なのだろう。しかし、キャメラは彼らの環世界を崩さない異物(キャメラの運動の外側では、非・環的でもあるが)であり、「踏み越えるカメラ」の内側で、踏み越えられない子供たちの完結的な世界が共存する不整合な世界が構成されていく。(アッバス・キアロスタミの「ホームワーク」などを見ればわかるように、子供にキャメラを向けることで「踏み越える」ことは可能であるが、本作において子供は幼児であり、又、武田や小林らのようにはダイナミズムを作り出せないことなどからキャメラを向ける対象となっていないようだ。)
自宅を児童託児所にしていたらしい武田が、息子と離れてまで映画に協力するはずはないだろうから、子供が画中に入り込むことは防ぎようがなかったのだろう。だが、子供のフレーム内への介入を削ることは出来たはずだ。それをしなかった(しているように見えない)のは、原≒キャメラと武田、小林の遷移の誇張を目指した為であり、皮膚の複数性を指標する為だったのではないだろうか。
子供がいることによって必然的に起こることの一つとして、洗濯物の増加が挙げられる。現に、同棲している女性との喧嘩が切り取られたシーンにおいて、武田は、洗濯物をハンガーに掛け、のばしたりしながら言葉を発していた。そして、沖縄の家や女性のコミュニティーにおいても画の中に室内干しされた洗濯物が多く映っていたように記憶している。つまり、原は(意識的、無意識的かは知らないが)、覆いを持たない者として子供を捉えながらも、着脱可能な皮膚を強く求めるアンヴィヴァレントな「他者」として子供を定着させているのだと言える。
ここで問に戻ろう。覆いの果てに覆いではない「ナニか」は存在しているのか。僕の中に予め用意されている解であるが、存在しないと僕は答える。その解を出す為に、まずは、裸体ではない皮膚を見てみよう。
海と陸とを分断する<壁>の前で小林佐智子が、武田美由紀にインタビューを試みるシーン。そこで小林は、白いシャツの上に黒いベストをはおり、黒いパンツ、手塚治虫の「少年ロック」的なつばが短くドーム(?)が大きな帽子を被っている。それは、映画関係者のステレオタイプな服装、コスプレだろう。髪を後ろで縛るのではなく、三つ編みにして前に出しているところにコスプレとしての在り方、一人の女の子の姿を、僕は見てしまう。その姿は、彼女の映画への態度であると同時に、原との関係の露出でもある。三つ編みにするという髪に対する働きかけにのみ少女性があるのではなく、被写体、「他者」である武田に対して、被写体でありながらも原、映画側にある事を提示している(と読める)ところに稚拙なロマンチスムの破片を見るからだ。
では、武田はどうだろうか。彼女は、ウーマンリブ的な発言を行いながらも、柄、テキスタイルの豊かな服装を選び続けている。彼女の服装は、第一に動きやすさを選択の条件にしているし(丈の短いワンピース)、ウーマンリブと服装の女性的な趣味(テキスタイルの豊かさを女性的と形容するのは短尺的だが)は矛盾することなく共存する。だが、ホストクラブで下世話な会話を行い、断定的な言葉を少なからず使う彼女の在り方と服装の趣味との間に齟齬がないとは言いえない。と、言うより、「彼女」と服装、つまりは、内向的であるからこそ外向的なアウトプットとの間には常に齟齬しかない。もちろん、小林も、武田とは異なる齟齬を羽織っているにすぎない。
原一男の前妻であり、本作の被写体であり、沖縄で黒人と同棲し、彼の子供を身ごもる武田美由紀。言葉の鉛によって、東京出身でないことを表明し続け、沖縄に小さいコミュニティーを持っている彼女。彼女の覆いは常に複数でしかなく、複数の皮膚と皮膚の関係は明確な断絶を持ってはいない。パソコンのウィンドウのような明確なレイヤーではなく、互いに影響を与え合う膜として彼女(僕ら)の表皮の複数はある。
ロラン・バルトを引き合いに出すまでもなく、裸体もまた、一つの衣服である。それは、内実なき武田のヌードが「日本人」、「女性」と言うフレームの外側にはない事を思い出せば十分だ。映画によって内部に「ナニか」を孕んでいくかに見えるその裸体は、純化された「個」(それがどんなものかは、僕には見当もつかないが、原の言う真実とはそのようなものなのだろう)とは程遠い、超・複数の皮膚を縫い合わせ、不断に変更しゆくノイズに塗れた表面を手に入れていくだけだ。
永遠に縫い合わせられていく皮膚。永久にたどり着けないただ一つの「私」。しかしそこに、たどり着く必要などあるのだろうか。エネルギーやコードが衝突する場、「外部」と「内部」が不整合的に共存する境界としての皮膚。それは常にある特異性、独一性を持ち、個々に異なる変換(複数の帰属、複数の帰属の不在という帰属は個々人によって異なるのだから)を行っていくのならば、絶対的なものではなく、又、正しいもの(そんなものはないが)ではなかったとしても、一つの、その瞬間だからこそ成り立つ「真実」なのではないか。それがどれだけペラペラで根拠が不在なものであっても構わない。絶対的帰属の不在によって初めて手に入る表皮。それは、純化されることのない不純さで成立し、だからこそ、開かれたものである。僕たちは、表面にとどまることを恐れるべきではない(表面にとどまる事とはつまり、その不整合な共存が生み出す運動や、新たな記号や概念、共同体らが縫い合わされていくプロセスを見つめることなのだから)。
原一男が、表層の内側にある真実を本当に信じていたのかどうかはわからない。ただ、本作の中では、それを「信じている」かのように振る舞ってはいる。その振る舞いの舞台とならざるを得なかった沖縄。原は、1970年、71年当時のハイブリットなその環境、「国」や「人種」の非・単一的な展開を、純粋なる「個」を強調する為に喜んで利用したのではないか。しかし、どれだけ用意された帰属の「外」を目指しても、いや、目指すからこそ既にある帰属、あるいは、(特定の環境下における)帰属の不在という帰属の在り方が浮き彫りになってしまうのではないだろうか。プライベートとは見られる事によって初めて表出し、いつでも「外部」の存在との相互作用の中にしかない。本作の「極私的」な強度とは、1970年代の沖縄と言う多元的環境でありながら、ある種の明快さを持った状況の内側にあることに支えられている。
僕はしかし、「表層の内側に真実などない。よって、本作は間違っている。」などと言う愚直なテーゼを述べる気は毛頭ない。そんなのなくたって構わないし、なくても本作は、キャメラの眼差しによって初めて捉えられる、根拠の不在ゆえに関係性が強度を持って崩壊/構築されていくスリリングな瞬間の運動体であり、優れた作品である。いや、「真実などない」からこそ、本作は感動的なのではないだろうか。「外部」が存在し、僕らはその中でしか生きていないのならば、「個」が純粋に存在しえる(「死に至る病」)事も、関係性のなかにノイズが存在しない(あるいは、不純物の純化)状況などありえない。しかし、その純化した「個」、つまりは、真実と呼びうる様な「個」の在り方を目指すことは禁じられてはいない。純化した「個」と言う存在しないもの。そこへと向かっていく原≒キャメラの眼差し。それは到達不能な地点へと向けられた野蛮さを孕んだ運動であり、不可能だからこそ感動的である。
※気が付けば一万文字ペースで書いてしまっていたので、クソ長くなってしまった&長くなりすぎるので大幅に端折ってしまいました すみません
イトウヒロタケ
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