2011年6月19日日曜日

欲望 不快であって更に感動的

「極私的エロス」という映画は一体どのような欲望によって駆動されていたのかを考えていた。

原監督は明らかな意思を持って、原さんと武田さんの私的な関係性を無神経と言えるほどにカメラに写し取る事によって「映画」を制作していた。ごく私的なホームビデオではなく、第三者がいずれ鑑賞することを前提にした映画を撮る行為をしていた。そこには映画を作るという欲望があり、一人の人間が感情をあらわに言動する姿をカメラに写し取る快楽もあったといえる。
その意味で原監督は己の欲望に忠実にカメラを回し、映画内の物語をより劇的なものにするために小林さんという存在を登場させたようにもみえる。議論となった出産シーンのぼかされたフォーカスはだからこそ作為的なものだと自分は確信している。

しかし、それと同等に原さんは痛みを感じているように見えた。無神経にカメラを近づければ近づけるほどに快楽が刺激され、そして傷ついているように見えた。
原さんはこの物語の製作者であると同時にプレイヤーなのだから、それは当然であるともいえる。


作品の登場人物も制作者も誰もが決して安全な位置にいられないのはある種、全ての芸術作品がそうだとして、「極私的エロス」はその強度がシンプルで断然強い。ゆえに凄まじいのではないか。



序盤の原監督の独白にある、「映画を撮ることで武田さんの事が分かる/近づけるかもしれない」という言葉は、個人的な体験を思い出させた。必ずしも恋愛のような関係性においてではなくとも、何かを達成させることが達成させる何かそのものよりも、誰かとコミュニケーションして同じ時間や空間を共有する事の方が重要であったりする局面はあると思う。安易な例でいえば文化祭などがそうだろうか。

とはいえ、それはコミュニケーションそのものが優先されていればこそ可能な事なのであってコミュニケーションと同格に作品が置かれているとき、この二つは切り離せない層を形成する。
むしろコミュニケーションそのものが作品である時、そこにはコミュニケーションそれ自体を優先しようというようなある種の共犯関係は存在せず、あるのは本気のコミュニケーションであり、それは時として本気で分かり合えず、または本気で分かり合う。あるいは分かり合えないという事を分かり合う。そのような血を流すようなコミュニケーションがあると思うのだ。
武田さんの、カメラの前にただ投げ出されているかのような佇まい。カメラから全く逃げないその有り様に原監督がカメラを向ければ向けるほど、血を流すようなコミュニケーションがあり、原監督のさらなる欲望は生まれ、同時に痛みは増していくのではないだろうか。



自分は映画を見終わったあとに、何とも言えない不快感を感じた。

作為的で無神経なほど執拗にカメラを向け他人の領域に土足で踏み込んでいく、しかしパパラッチ的な安全な領域からの観察ではなく、踏み込んでいく事によって同時に自らを斬りつけながら突き進むカメラ。それが生み出す不快感。

たがこの不快感は、混合しながらさらにもう一つ上の欲望を刺激したように思う。
ただ面白いだけのものはつまらない、刺激が欲しい。といったちょっとしたスパイスのような安全な刺激ではなく、ただただ混乱するほかない、そこにただ投げ出されてある、漠然と存在している正体不明の何物かに触れたかのような、途方もない刺激とでもいうようなものを感じた。それに触れた事により感動を覚えた。

決してそれは原監督の感じていた欲望と相似のものではないと思う。この映画を見る観客であるところの自分をたきつけた、作品のもつ欲望の駆動力である。
「不快であると同時に感動的」というよりは、「不快であって更に感動的」というようなもの。
自分がスクリーンを凝視するという欲望を持ち続けたのも、これがあるからだと考えている。


あと映画が写し取っていた子供達は、大人達の物語の外部にある存在として映っていたのが印象的だった。
それはまるで、他者に向かって徹底して距離を詰めていく原監督の行為のすぐ側で見落とされる、圧倒的な他者として存在しているかのようだった。

とはいえ、もちろん子供達に愛ある視線は注がれていた。
それとこれとは まさしく別々。。






西川達郎

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