2011年6月18日土曜日

極私的エロス・恋歌1974 k.k

 
この映画に関しては、何を言っても正しいような気がするし、何を言っても間違っているような気もする。
一筋縄に言葉を編めるような映画ではないことは感覚的に分かるし、むしろ、もっともらしく、それ故にいかがわしい言葉をもって、この映画をわん曲することに抵抗すら覚える。

こういった極限まで純化された(あるいは極めて不純な)関係が、フィルムに焼き付いていること自体が、
なにか、なんというか、凄く羨ましいのです。極私的エロスという映画を観た感想が「羨ましい」というのは妙だなあとも感じるのですが、本当にそう思える。
撮る、撮られるという、基本的な行為が駆動力になって男女の関係はここまで剥き出されるものかしらと単純に驚く。驚いたというよりは嫌悪したし、嫌悪したけれど、本当に美しくも思える。なんと言うか、とりあえず感想まで…。もうちょっと考えます。

 あと、金曜にゼミのメンバーとこの映画を観たあとに行ったディスカッションに妙なストレスを感じたことが頭に残っていて、その言いようのない違和感は何だったんだろうって昨日今日ちょっと考えていました。
で、思うに

(A)『撮影者が何を撮ろうとしていたか』
(B)『カメラを回した結果、何が映ったか』

という2つの話を混同させたまま議論が進んでいたような気がしてならなくて、ちょっとそこんとこをクリアにしたいなーってその時には感じていたのだろうと、今は思っています。
お前が気付いていないだけで、実はそういう話をしていた、っていうことだったらスミマセン。

 もう一つ、この作品にとっては、というかドキュメンタリー全般?映画全般?に言えるのかも知れないけど、

(C)『被写体である武田氏が、撮影者である原監督に何を撮らせたかったのか/撮らせたのか』もっと言えば
『撮らせることで/撮ることで、どうなりたかったのか/なったのか』

という話が重要になってくるはずで、それをおざなりにしてこの映画を思考することは難しい、というか、出来ない。AとCの軋轢がBの強度を生んでいるのは間違いないし、
それに加え本作では、原監督のパートナーである小林氏という存在も加わり、理屈ではない感情の渦が映画を支配している。
その軋轢を丁寧に汲み取ることなしには、この映画の中には入って行けないと考えます
そういった点において、先日ゼミで観た
ジャ・ジャンクー監督作品の『in public』と『極私的エロス』は、内容はもちろん、
タイトルからしてもまさに
対極に位置すると言える
そこのところを、もうちょっと考えてみたい。
土本氏の映像や、極北のナヌークなんかにも通ずるところが少なからずあると思えるのです。
お前が気付いていないだけで、実はそういう話をしていた、っていうことだったらスミマセン。

                               くぼでら


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