カメラを回し、相手の内部をえぐり出す。同時に自ら傷つけられつつも欲求を満たしていく。
多少の口論じみたものはあっても、よくもまあこんなに冷静に話が進んでいくものだと思いながら見ていた。人はここまでずけずけと自分の間合いの内側に入られて正気でいられるのだろうか?普通の人ならプライバシーや常識のあるレベルをこえれば拒否感を示すだろうし、撮影者自身も罪悪感にさいなまれるのではないか。それが無い。全く感じられなかった。ゆえに普通ではない、狂気じみている。発端が武田さん側から申し入れた事なので拒否はされなかったものの、一触即発でいて何も起こらない、起こったとしても見る側の中で不完全燃焼になってしまうような、ある種の異様な空気がこの作品を覆っている。少なくとも僕はそう感じた。
完全に観客は無視され、原さんと武田さんの世界のみ繰り広げられる。
制作する以上公開することは考えられているだろうがそれは二の次であり、目指す所は究極の自己満足である。その意味で「極私的」なのだろう。
獣のように自分の欲求に素直で、なりふりかまわずそれに向かって前進する武田さんとカメラ(原さん)との間合い。そこにはもはやはばかるものは何も無い。
まるで原さんが武田さんという人物を理解できない事にいらだちを覚え、怒り、鬱憤をはらそうとしているかのごとく凶暴に詰め寄っていく。
そうやって感情の赴くまま忠実にカメラを向け、制作のことなんて後回しにしてるんじゃないかというくらいただ己の欲望を満たす事のみに正直だった原さんが、皮肉にも純粋に映画に身を捧げ、作品というものに最も献身的に恥も外聞も捨てて真摯に向き合っているように見えた。
案外、制作の本質は知的でも理性的でもなく、獣じみた己の衝動という本能的なものなのかもしれない。
河城貴宏
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