2011年4月22日金曜日

柏屋拓哉 ゼミレポート

映像は危険なまでにありのままの世界を映しだしてしまいます。しかし、作家はその映像の使いどころを選択することが出来ます。作家の意志を付加させることで観客に対して作家がどのように世界と対峙してきたのか示すこれが重要な事なのです。観客にどうやって自分の戦いの痕跡を見せるかが。そして、同時に作家は被写体と観客に対して責任を負わなければいけないのです。被写体を傷つけ撮影した映像にさらに自分の意志という傷をつける。そうやって出来た傷だらけの映画を観客に見せる。いい意味でも悪い意味でも被写体に対しても観客に対しても大きな衝撃を与えることになります。その点で言えば「ドキュメンタリー」と「フィクション」という比較は成り立たちません。

私は卒業制作でこの事を痛感しました。演技を拒否されてしまったのです。私は最初なぜ演技を拒否されてしまったのか全くわかりませんでした。しかし、今に思えば脚本を一切書くことなく加えて意図さえも相手に伝えることを放棄していました。これは暴力と表現されてもおかしくない行為でした。自分は相手から攻撃されない安全な場所へと閉じこもり相手を危険な場所へ向かわせていました。これは作家として恥ずべき行為だったと自分では感じています。共に制作するという事を完全に忘れてしまっていたのです。私がやるべきだったのは相手と共に危険な場所へと向かう事か相手を安全な場所へと導くことだったのです。この経験を通して共に作るということが私の最大のテーマに成りました。映画は一人では決して制作出来るものでは有りません。敢えて危険な言葉を使って言いたいです。映画制作で最も気にするべきなのは「道徳」ということです。

諏訪ゼミナールとしての総括というか感想に成りますが個人的にはとても良いゼミだと感じる反面危険だと感じる部分も有りました。映画の生徒が多い事もあって自分も含めてですが作家と被写体の関係についての議論が中心になっていましたが私たち作家が作品を見せるのは他の作家(そういった作品が存在していますし重要だとも感じますが)ではなく、無差別な人間ということです。私達には無差別な人間の視点という物を鍛えていかなくてはならないのでは無いでしょうか?


文章を書くのが下手という事も手伝ってかなり遅いレポートとなってしまい申し訳有りませんでした。ですが、拙い文章(誤字脱字があったらすみません)ですが皆さんに読んでいただけたらと思います。

p.s.また、ゼミの皆とお酒が飲みたいです(笑)

3 件のコメント:

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  2. 柏屋が言わんとしていること、立場が明確になっており、なおかつ絞り出してこうなった感じがする所は良いと思う。

    ただ、僕はこの文章にすごく腹が立つ。今までの柏屋の制作スタイルは決して、共に制作するということを忘れていないと思っていた。それがこの文章で否定されてしまっていたところ。柏屋は決して、「自分だけ安全な場所」にいて役者だけ危険な場所に向かわせていたわけではないと思う。ただ、柏屋の役者への言葉、距離が足りなかったのではないか。
    言葉を尽くし、距離をつめることを惜しまないことが必要だと強く思う。
    脚本が必要か否か、それがあってのことであるし、映画制作で最も気にするべきことが道徳かどうかも、二の次ではないかと思う。

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  3. 狩野くんがいう「距離」が僕のいう「道徳」という意味とほぼ同じで、一般的にな「道徳」ではないです。「道徳」=自分のルールみたいな捉え方です。

    やっぱり他人のと自分の心とが共に無ければ駄目だと思います

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