東京造形大学諏訪敦彦ゼミのブログです。ドキュメンタリーをキーワードに映画の可能性について研究します。外部から自由にコメントしていただいて構いません。
一応、私がまだ固まっていないと思うのは「生活と制作」というテーマに対する私たちの態度ペドロ氏への最初の問い(上が決まれば必然的に決まると思いますが。)えっと、「生活と制作」というテーマについてですが単純に、生活する上で自分の選択がどのように制作に繋がり、逆に制作がどのように生活に影響を与えるのかをペドロ氏を含め皆どう考えているのか気になってテーマに掲げました。
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ここのところわたわたしている田村です。ブログなんで見返すことができる、思い出の数々。ホームビデオの家族についてや、『何も変えてはならない』。「映画が大事なのではなくて人間が大事なのだ」や、カメラで映画をつくることと今いる世界や「そこにいることと、決してそこにいないこと」、ジョナス・メカスのライフワーク?としての映画、ナヌーク!ヴァンダの部屋。などなどの文脈から「生活」が導き出されたのもなんとなくわかります。(きふねさんの文脈もあるけど)それだけです。あとまた書きます。
上のコメントを消したのは、勘違いというか間違いです自分はすでに田村君の作ってくれたトピックで発言をしていますが、それを皆どのようにうけとってくれたのかは気になります。それと、自分が抜けた後のディスカッションで、どのような事が話されたのか気になっているんですが、誰か書いてくれるとありがたいです。コメントに対するコメントをその場の感情抜きでじっくりと考えられるのがブログだと思いますので。くりかえしになりますが、個人的には制作と生活をどう繋げるかなんて絶対に個人の責任だとは思います。ただ、例えば映画は現実的に金とスタッフがかかるし、写真はある意味で一人で探求できる。(スナッパーの場合ですが)そういった違いはある。(というかそもそも就職難ではあるが、我々は恵まれた日本人であるわけですよ。極貧な人間はアールブリュットのような制作を選ばなきゃいけないわけで。カメラなんてかえないですよ。だから作ったひといるけど。)そんな中ペドロ•コスタがどういう手法をとったかというのはいうまでもないですよね。他者の生活の中と融和させていった。あるいは新しい生活をつくった?ペドロコスタは「自分の中心をそこに(フォンタイーニャス)見つけた」という言葉と「映画が一番大切になってはいけない」というとても興味深い言葉を、述べています。この文章に僕らは簡単にアクセスできます。見た人も多いでしょう。http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/pedrocosta/index.htmlまあ、あんま纏まっていないですが、「生活」は「一人の問題であり他者との関係の問題でもある」わけですよね。それに対して「制作」は普通はパーソナルな行為である。しかしそれは不可分である。そんな生活の中で行われている制作という行為は、本当にパーソナルな行為なのか?とかそういう所に興味があります。とにかく、今回のテーマにおける「生活」という言葉に対しての皆の意識が気になります。狩野さんも「圧倒的に広がりすぎてしまう」といっていて、それが事実なんですが、ブログならまずざっと出た意見を俯瞰できるわけですし。
どうでもいいけど、金が無いから自分でカメラを作った写真家ミロスラフ・ティッシ-http://www.tokyo-art.info/w40.htmすごいんですよ写真も。。。
まず古澤が帰ったあとの議論について溝口、小津、成瀬、ラング、フォードの映画も観ておくと良いと思うという話にもなりました。と柏屋が書いたように、どんな映画を見ておくべきかという話が中心でした。ヴァンダの部屋で描かれている生活は、問題にあふれていると思います。取り壊されていく建物だったり、蔓延するドラッグだったり、社会的な問題といえますよね。ですが、それが本題じゃないですよねヴァンダの部屋って。社会的に問題になりうる生活を、社会的な問題として取り上げて、世間に訴えて行く側面よりも、やはり「映画」としての側面が大きいと思うのですよ。偏見かもしれないが、もし日本のドキュメンタリー番組制作会社がヴァンダの部屋の生活に放り込まれたら、「ドラッグに蝕まれる国民」、「消え行く街」のような、社会的問題ばかり取りあげると思うし、日本人(僕も含め)はそれを見て、それなりに何かしらの感情を抱くと思う。何故か。それ(ドラッグとか)って、社会的問題として捉えられた制作物だと、僕らが暮らしてる生活から非常に遠いものに見えるからじゃないかな。でもそういったドキュメンタリー制作会社が作り上げそうな社会的諸問題の側面じゃなくて、ペドロ氏の制作物(ヴァンダの部屋)は映画的側面を提供してくる。そうなると、僕らが非常に遠いものだと思ってたものが、案外すぐそこまでせまってるんじゃないか。って気になってくるんだと思います。もしかして、僕らの生活ではブルドーザーの音が聞こえないだけなんじゃないか、というふうに。だから、僕らの今の生活、ってものから制作という行為を通して、「何を拾い上げるか」「何を疑問とするか」そうした行為自体もまた、生活の一部になっていくのではないか?ってなことを考えております。
一応、私がまだ固まっていないと思うのは
返信削除「生活と制作」というテーマに対する私たちの態度
ペドロ氏への最初の問い(上が決まれば必然的に決まると思いますが。)
えっと、「生活と制作」というテーマについてですが単純に、生活する上で自分の選択がどのように制作に繋がり、逆に制作がどのように生活に影響を与えるのかをペドロ氏を含め皆どう考えているのか気になってテーマに掲げました。
このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除ここのところわたわたしている田村です。
返信削除ブログなんで見返すことができる、思い出の数々。
ホームビデオの家族についてや、『何も変えてはならない』。「映画が大事なのではなくて人間が大事なのだ」や、カメラで映画をつくることと今いる世界や「そこにいることと、決してそこにいないこと」、ジョナス・メカスのライフワーク?としての映画、ナヌーク!ヴァンダの部屋。
などなどの文脈から「生活」が導き出されたのもなんとなく
わかります。(きふねさんの文脈もあるけど)
それだけです。あとまた書きます。
上のコメントを消したのは、勘違いというか間違いです
返信削除自分はすでに田村君の作ってくれたトピックで発言をしていますが、それを皆どのようにうけとってくれたのかは気になります。
それと、自分が抜けた後のディスカッションで、どのような事が話されたのか気になっているんですが、誰か書いてくれるとありがたいです。
コメントに対するコメントをその場の感情抜きでじっくりと考えられるのがブログだと思いますので。
くりかえしになりますが、個人的には制作と生活をどう繋げるかなんて絶対に個人の責任だとは思います。ただ、例えば映画は現実的に金とスタッフがかかるし、写真はある意味で一人で探求できる。(スナッパーの場合ですが)
そういった違いはある。(というかそもそも就職難ではあるが、我々は恵まれた日本人であるわけですよ。極貧な人間はアールブリュットのような制作を選ばなきゃいけないわけで。カメラなんてかえないですよ。だから作ったひといるけど。)
そんな中ペドロ•コスタがどういう手法をとったかというのはいうまでもないですよね。他者の生活の中と融和させていった。あるいは新しい生活をつくった?ペドロコスタは「自分の中心をそこに(フォンタイーニャス)見つけた」という言葉と「映画が一番大切になってはいけない」というとても興味深い言葉を、述べています。この文章に僕らは簡単にアクセスできます。見た人も多いでしょう。http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/pedrocosta/index.html
まあ、あんま纏まっていないですが、「生活」は「一人の問題であり他者との関係の問題でもある」わけですよね。それに対して「制作」は普通はパーソナルな行為である。しかしそれは不可分である。
そんな生活の中で行われている制作という行為は、本当にパーソナルな行為なのか?
とかそういう所に興味があります。
とにかく、今回のテーマにおける「生活」という言葉に対しての皆の意識が気になります。狩野さんも「圧倒的に広がりすぎてしまう」といっていて、それが事実なんですが、ブログならまずざっと出た意見を俯瞰できるわけですし。
どうでもいいけど、金が無いから自分でカメラを作った写真家
返信削除ミロスラフ・ティッシ-
http://www.tokyo-art.info/w40.htm
すごいんですよ写真も。。。
まず古澤が帰ったあとの議論について
返信削除溝口、小津、成瀬、ラング、フォードの映画も観ておくと良いと思うという話にもなりました。と柏屋が書いたように、どんな映画を見ておくべきかという話が中心でした。
ヴァンダの部屋で描かれている生活は、問題にあふれていると思います。取り壊されていく建物だったり、蔓延するドラッグだったり、社会的な問題といえますよね。ですが、それが本題じゃないですよねヴァンダの部屋って。
社会的に問題になりうる生活を、社会的な問題として取り上げて、世間に訴えて行く側面よりも、やはり「映画」としての側面が大きいと思うのですよ。
偏見かもしれないが、もし日本のドキュメンタリー番組制作会社がヴァンダの部屋の生活に放り込まれたら、「ドラッグに蝕まれる国民」、「消え行く街」のような、社会的問題ばかり取りあげると思うし、日本人(僕も含め)はそれを見て、それなりに何かしらの感情を抱くと思う。
何故か。
それ(ドラッグとか)って、社会的問題として捉えられた制作物だと、僕らが暮らしてる生活から非常に遠いものに見えるからじゃないかな。
でもそういったドキュメンタリー制作会社が作り上げそうな社会的諸問題の側面じゃなくて、ペドロ氏の制作物(ヴァンダの部屋)は映画的側面を提供してくる。そうなると、僕らが非常に遠いものだと思ってたものが、案外すぐそこまでせまってるんじゃないか。って気になってくるんだと思います。
もしかして、僕らの生活ではブルドーザーの音が聞こえないだけなんじゃないか、というふうに。だから、僕らの今の生活、ってものから制作という行為を通して、「何を拾い上げるか」「何を疑問とするか」そうした行為自体もまた、生活の一部になっていくのではないか?
ってなことを考えております。