東京造形大学諏訪敦彦ゼミのブログです。ドキュメンタリーをキーワードに映画の可能性について研究します。外部から自由にコメントしていただいて構いません。
私はこの映画に関して言えばドキュメンタリー的な手法は使っているのは理解出来たのですが内容がどうしても今まで教育されて来た引き蘢りの物語りをなぞっているようであまり面白いとは言えませんでした。しかし、あの引き蘢りの彼を説得するおじさんにはリアリティーを感じた分親近感のような物を感じました。皆さんはどうでしょうか?
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mとnとはどいう事でしょうか?
はい!MもっとNのって!ごめんなさい。ぼくもおじさん面白かったです。そのおじさんについて考えたのですが、「戦う兵隊」のあのフィックス(固定でカメラを動かさずに)上官とのやりとりのシーンに近い感じがします。 いい意味でおじさんは、自分が何をしているのか一番把握できてない印象でした。たしかに、他の人と違って、説得する人という映画での役割がはっきりしています。 しかし、あの説得ってまさに現実の中でいままでやってきたことで、きっと撮影の時には一人だけ「いつもみたいにお願いします!」って言われながら、「そういわれてもこいつさっきまで普通に話してたし、ヒロシ(引きこもりのなまえ)じゃなくて近所の劇団員?だし」って言う所で、自分で自分を演じることのなんとも言えない感じがしていたように感じました。 ひろしくんも、お母さんも役割がはっきりとしていて、映画の物語を進める術を知っている中で、 あのおじさんだけ、「引きこもりの物語」を、信念を持って進める術は知っているけれども、それ以外は知らないよ、という印象を受けました。 正直、あのおじさんが出てきてから物語りの劇効果は増長していくはずなのに、トーンダウンしてました(ここが面白かった)。 結局部屋から出るシーンとかを入れられなかったのって、あれわざとじゃなくて、これ以上使えなかったからじゃないのかな。すっごい憶測です。展示、イベントですが面白そうです。なにかきっかけにテーマの様なものを探していたのですが見つからず。あるといいな。
「扉の向こう」は撮り方として引きこもりの子を主人公に据えることなく、見えるものだけを撮り続けているという印象がありました。主人公として引きこもった少年を見つめていくのかと思うと、引きこもってからは弟や親など、家族にスポットが当てられていく。そう思うと、後半は引きこもりの子たちを支援する団体の方が現れ、そこでの対話が展開していく。もちろん形式としてはフィクションで、構図やカット割りも計算されていましたが、カメラを向けるスタンスとしてはどこか一歩引いたような感覚を覚えました。どこかワイズマンのような・・・話はそれますが、柏屋君が言う、引きこもりの物語をなぞっている感覚は自分もありました。
扉の向こうを、「向こう」として撮っているのがよく効いていると思いました。まあ撮ってないという事なんですが。ではこちら側とはいったいなんだ?というのも結局は曖昧になっていくのも誠実にカメラを振り回した故なのかなと考えました。途中、センターのおじさんが出てから、「現象」としてひきこもりを扱っているんだな、と感じ、それもある意味誠実なのかもしれないと考えましたが、なんか不愉快でした。誠実すぎて、といういかまじめすぎて、あれがないですよ。トリュフォーが大切にしたものが。
そうですね。あとイベントというか、サッカーをしたいです。
見終わった時にその場でべらべらしゃべったのですが一応。THEひきこもりと言わんばかり、ひきこもりのモデルみたいな話だなーと思いながら見ていたのですが、それが分かっていても二時間の映画として物語をなぞっているとすごく重たいというか、消耗させられた感じがしました。それが映画の力というものなんでしょうか。ただ、終盤で再登場したヒロシが割とさっぱりしたイケメンだったので、「ああやっぱりこれは映画なんだな(人の作ったお話なんだな)」と現実に引き戻された感じがして一安心しました。カメラがヒロシの部屋に踏み入る時、やっぱりすごくドキドキしたんですが、再登場したヒロシが同じ役者でものすごく太っているとか、いっそ最後まで顔が映らないとかだったら、また違ったのかなあと思います。みんなが言っているセンターのおじさんですが、演技は素人なんだけどやっていることはいつもの仕事(プロ)なもんだから、そこで生じるあべこべな部分とかが、なんとなく映画をかき回しているというか、個人的に非常に良い味を出していたような気がします。あとは自分の子どもを城●予備校には通わせたくないなあと思いました。これは冗談です笑
自分のコメントでワイズマンのようなと書きましたがそれは違うかもしれないです。古澤君の言葉を借りれば、最終的には現象として捉えているなぁと思いますが、見ている最中の大半は母親の視点で映画を見ていたことは確かですね。繰り返しになりますが、母親からセンターの人になったあたりでやはりドキュメンタリー性のようなものが増加したようには感じました。この転換の場面でドキュメンタリーのように感じてしまうのも反面怖いことかもしれませんが。
センターのおじさんについてですが、あの方の登場以降、映画は具体的な方法を見せてゆきますね。これは作品=表現としてよりも、問題の具体的な解決方法が現実にあることを映画として示そうとしているように思います。
「彼女の名はサビーヌ」を授業で見直した上で(業に遅れてしまい、だいぶ去年鑑賞した記憶なんですが…)自分のコメントに追記させてもらいます。この作品は時として残酷なまでに作為的な編集であり、そこを糸口に作品について語ったりしましたが、案外そんな事よりも、僕らの目を強烈に打つのは、過去のテープ、あるいは現在のサビーヌの眼差しであったり。ビデオを観るサビーヌの涙だったり(あれはどういう涙なのでしょう)。落下する食器だったり。母親の自分を責めるつぶやきだったり。UPLINKで鑑賞した時はそう思わなかったのですが、エンドロール前の政府に対する独白は飾りだと、二回目の今回なんとなく感じました。僕が「扉の向こう」に感じた違和感は、ドキュメンタリーな手法であってもなくても、「人の存在」に寄り添ったショットが少なかったように感じた事、それを言いたかったのではないかと気づきました。愛じゃないや。ただ、そんな中、母親の狼狽した表情や、拒絶を示す扉を叩く音は、とても印象的でした。
私はこの映画に関して言えばドキュメンタリー的な手法は使っているのは理解出来たのですが内容がどうしても今まで教育されて来た引き蘢りの物語りをなぞっているようであまり面白いとは言えませんでした。
返信削除しかし、あの引き蘢りの彼を説得するおじさんにはリアリティーを感じた分親近感のような物を感じました。
皆さんはどうでしょうか?
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返信削除mとnとはどいう事でしょうか?
返信削除はい!MもっとNのって!
返信削除ごめんなさい。
ぼくもおじさん面白かったです。
そのおじさんについて考えたのですが、
「戦う兵隊」のあのフィックス(固定でカメラを動かさずに)上官とのやりとりのシーンに近い感じがします。
いい意味でおじさんは、自分が何をしているのか一番把握できてない印象でした。たしかに、他の人と違って、説得する人という映画での役割がはっきりしています。
しかし、あの説得ってまさに現実の中でいままでやってきたことで、きっと撮影の時には一人だけ「いつもみたいにお願いします!」って言われながら、「そういわれてもこいつさっきまで普通に話してたし、ヒロシ(引きこもりのなまえ)じゃなくて近所の劇団員?だし」って言う所で、自分で自分を演じることのなんとも言えない感じがしていたように感じました。
ひろしくんも、お母さんも役割がはっきりとしていて、映画の物語を進める術を知っている中で、
あのおじさんだけ、「引きこもりの物語」を、信念を持って進める術は知っているけれども、それ以外は知らないよ、という印象を受けました。
正直、あのおじさんが出てきてから物語りの劇効果は増長していくはずなのに、トーンダウンしてました(ここが面白かった)。
結局部屋から出るシーンとかを入れられなかったのって、あれわざとじゃなくて、これ以上使えなかったからじゃないのかな。
すっごい憶測です。
展示、イベントですが面白そうです。なにかきっかけにテーマの様なものを探していたのですが見つからず。あるといいな。
「扉の向こう」は撮り方として引きこもりの子を主人公に据えることなく、見えるものだけを撮り続けているという印象がありました。
返信削除主人公として引きこもった少年を見つめていくのかと思うと、引きこもってからは弟や親など、家族にスポットが当てられていく。そう思うと、後半は引きこもりの子たちを支援する団体の方が現れ、そこでの対話が展開していく。
もちろん形式としてはフィクションで、構図やカット割りも計算されていましたが、カメラを向けるスタンスとしてはどこか一歩引いたような感覚を覚えました。どこかワイズマンのような・・・
話はそれますが、柏屋君が言う、引きこもりの物語をなぞっている感覚は自分もありました。
扉の向こうを、「向こう」として撮っているのがよく効いていると思いました。まあ撮ってないという事なんですが。
返信削除ではこちら側とはいったいなんだ?というのも結局は曖昧になっていくのも誠実にカメラを振り回した故なのかなと考えました。
途中、センターのおじさんが出てから、「現象」としてひきこもりを扱っているんだな、と感じ、それもある意味誠実なのかもしれないと考えましたが、
なんか不愉快でした。誠実すぎて、といういかまじめすぎて、あれがないですよ。トリュフォーが大切にしたものが。
そうですね。あとイベントというか、サッカーをしたいです。
返信削除見終わった時にその場でべらべらしゃべったのですが一応。
返信削除THEひきこもりと言わんばかり、ひきこもりのモデルみたいな話だなーと思いながら見ていたのですが、それが分かっていても二時間の映画として物語をなぞっているとすごく重たいというか、消耗させられた感じがしました。それが映画の力というものなんでしょうか。
ただ、終盤で再登場したヒロシが割とさっぱりしたイケメンだったので、「ああやっぱりこれは映画なんだな(人の作ったお話なんだな)」と現実に引き戻された感じがして一安心しました。
カメラがヒロシの部屋に踏み入る時、やっぱりすごくドキドキしたんですが、再登場したヒロシが同じ役者でものすごく太っているとか、いっそ最後まで顔が映らないとかだったら、また違ったのかなあと思います。
みんなが言っているセンターのおじさんですが、
演技は素人なんだけどやっていることはいつもの仕事(プロ)なもんだから、そこで生じるあべこべな部分とかが、なんとなく映画をかき回しているというか、個人的に非常に良い味を出していたような気がします。
あとは自分の子どもを城●予備校には通わせたくないなあと思いました。これは冗談です笑
自分のコメントでワイズマンのようなと書きましたがそれは違うかもしれないです。古澤君の言葉を借りれば、最終的には現象として捉えているなぁと思いますが、見ている最中の大半は母親の視点で映画を見ていたことは確かですね。
返信削除繰り返しになりますが、母親からセンターの人になったあたりでやはりドキュメンタリー性のようなものが増加したようには感じました。この転換の場面でドキュメンタリーのように感じてしまうのも反面怖いことかもしれませんが。
センターのおじさんについてですが、あの方の登場以降、映画は具体的な方法を見せてゆきますね。これは作品=表現としてよりも、問題の具体的な解決方法が現実にあることを映画として示そうとしているように思います。
返信削除「彼女の名はサビーヌ」を授業で見直した上で(業に遅れてしまい、だいぶ去年鑑賞した記憶なんですが…)自分のコメントに追記させてもらいます。
返信削除この作品は時として残酷なまでに作為的な編集であり、そこを糸口に作品について語ったりしましたが、案外そんな事よりも、
僕らの目を強烈に打つのは、過去のテープ、あるいは現在のサビーヌの眼差しであったり。ビデオを観るサビーヌの涙だったり(あれはどういう涙なのでしょう)。落下する食器だったり。母親の自分を責めるつぶやきだったり。
UPLINKで鑑賞した時はそう思わなかったのですが、エンドロール前の政府に対する独白は飾りだと、二回目の今回なんとなく感じました。
僕が「扉の向こう」に感じた違和感は、ドキュメンタリーな手法であってもなくても、「人の存在」に寄り添ったショットが少なかったように感じた事、それを言いたかったのではないかと気づきました。愛じゃないや。
ただ、そんな中、母親の狼狽した表情や、拒絶を示す扉を叩く音は、とても印象的でした。