東京造形大学諏訪敦彦ゼミのブログです。ドキュメンタリーをキーワードに映画の可能性について研究します。外部から自由にコメントしていただいて構いません。
ホームビデオだと、「パリ、テキサス」内の8mm上映を思い出しますね。むしろあれは表面上は、’’あの家族’’を破壊したようにも思えるけど…笑いや救ったのか?家族内アルバム的な日本のホームビデオを共有して楽しむことは、結びつきの強化や再発見のような可能性は多分にあると思いますが、それと同時に、やはり他人と家族をあまりに強くわけてしまう、むしろその「家族」をつくるための装置にも思えてしまいます。というのは極論でしょうか。ただ、様々なメディアの登場で、手軽かつ高精度なクリップ映像でも可能になった今、そういった「家族の映像」は、今までのように家族内アルバムとしての機能を超えて、家族を開かれた物にする可能性があるのではと感じます。例えば家族紹介的なかわいらしいショートムービーや、誰が見ても面白いハプニング的な瞬間を撮れるなど。まあ、開かれたから何なんだと言われたらオシマイですが。。投稿者さんのいう「映画」が、ホームビデオに関わらないものだったら、全然話がかわってきてしまうので、そこ誤解してたらすいません。
父が昔のホームビデオを楽しそうにか、、内の親父は子供興味ないので絶対に見ないな(僕に遺伝はしてないです)。家族を作る装置は個人的には賛成だなぁ、「その」家族の装置のあり方や内容は実は様々で、試行錯誤しながら「それぞれの」家族の問題を解決なり、楽しむなりしてゆくしかないよね。感傷的でもなんでも、映像がその手助けになれればよいのでは、逆に言えば血縁関係がなくても映像によってその家族になれるかもしれないし、もちろん無理して映像に収める必要はないけれど。うーん、家族というかわたしと、誰か、弟なり、姉なり、親父なり、母親なり、友達なり、といった個人との関係なのではないのかなぁ。あと、この間、兄の結婚式の映像を撮りました。ラッシュを見ていて、新婦の家族をあんまり撮っていないことに気がついた(義姉さんごめんなさい)。家族が二つだと、「家族で映画を共有して楽しむという行為」は二倍増しなのかな、二分の一なのかな。でも、もはやこれからは一つの新しい家族なのかもしれない、と映像がそういう発想の可能性をもっているのだろうか。そして、授業でリュミエールを見せていたのですが、工場の出口より、赤ちゃんのケンカとか、両親と赤ちゃんがご飯食べているところとかがとても面白かった。あとでみんなと話して話したのですが、ハンディーカムのCMとかでも赤ちゃんや家族や子供たち?の映像が多いのは、何でだろうかぁ。親としては見せたいのかな、自分の子供。。
おそらくペドロ・コスタは映画制作において「家族」をつくり出そうとしているような気がする。まだよく考えてはいませんが、直感的にそう思います。
ぼくがいった家族は、幻想としての家族を強烈に求めるが故に、バランスを欠いていく家族、それは親が子を殺める諸事件なり、村上龍の「最後の家族」や、山本直樹「ありがとう」などで提示されている家族像を通して捉えていった結果の、きわめてネガティブば意味での括弧付きの家族の事だったんですが、いつのまにか僕自身、家族という言葉そのものを「不可能な物」としてとらえていたかもしれません。たしかに、いろんな家族があっていいわけで、感傷的に作用しようが、結びつきを再確認できるような磁場ができればそれは素晴らしい事ですね。田村さんも言葉の選択に難儀されてましたが、そもそも家族という言葉は本当にデリケートだと思います。自分の家族構成をどう説明すればいいのかという事を顧みてもそう思います。(一般的にいうなら二人でしょう)なんか参照ばかりで申し訳ないんですが、ふと黒沢清監督の「ニンゲン合格」(99/日本)のワンシーンを思い出しました。バラバラになった家族がテーマ(一応)になっている、らしくない作品なんですが、あるシーンで、ホームビデオではないんですが家族が映っている「映像」を通して一瞬家族が誕生する。次の日にまた家族は離散するのですがその一瞬を自覚的に捉え、家族外の人間と頷き合う主人公の表情がとても印象的で、永続的な「状況」だけが家族とは限らないと感じました。スタッフを家族と表現する事はあるかもしれませんが、スタッフのほとんどいないペドロ•コスタが被写体達というか映すコミュニティそのものと家族関係を結んでいくのは、何か彼の映像の秘密に関わることなのでしょうか。ただ、スクリーンの前に座る鑑賞者たちはあくまでバラバラな事も興味ぶかいです。
私はホームビデオを見ている時furusawa君が言うような結びつきの再確認が起こっているような気がします。映像に写る自分自身と家族との関係、そしてそれを家族と共に見ている状況が客観的に自分自身が家族の一部だという事を思い出させてくれているような気がします。ペドロ・コスタの映画では観客にも家族の確認に近い感覚を感じさせているのかもしれません。
映画の中の家族、作られる現場での家族、観客の家族などなど。ペドロ・コスタの映画では観客にも家族の確認に近い感覚か。僕がリュミエールに感じたのはそれかも。あの時ペドロ・コスタはヴァンダは映画で撮ることで存在しているって言ってたような。映画によってはじめて存在するヴァンダは、こちらの存在を認めているようにも思える。ありえないか。ふるさわくん鑑賞者たちはあくまでバラバラなのは確かに、、整理券もらうところから、映画館出るまでみんな沈黙だよね。でも後の鑑賞者同士の連絡や集まりは多いな。ありがとう!「ニンゲン合格」見てみます。
家族というのは物語ですよね。ホームビデオって、映っている家族を知らない人が見たら、一つの映像の断片に過ぎないけれど、家族にとっては物語映画なんだね。現実の出来事、記憶、映像、異なるコンテクスト同士が繋がりあって、物語の網を作っている。
それは“我々”の物語。“私の”じゃなくて。さて“我々”って何処までがそうで、何処からがそうじゃない?
“我々”の境界線ですか難しい問題ですね。安直な答えかもしれませんが映画を他人に観せなおかつその映画のコードを理解されたなら“我々”の映画になるのではないでしょうか?映画を他人に観せる前は“私”の映画で他人に観せコードを理解されなけれ私にとって“私”の映画のままであり他人にとっても“他人”の映画にしかならないはずです。まぁ、ここでの“理解”とは何なのかという事も問題ですが。
「理解」というか、物語を「生きて」しまっているんです。僕は様々な物語の中を生きている。物語の外にいる人なんていないんです。物語は終わっていなくて、続いているんだから。だから、物語を「理解」することなんて不可能なんです。物語を感じてるんです、知覚してるんです。また、物語によって感じたり、考えたりしている。物語は網のように紡がれたり編まれたり、シャボン玉のように膨らんだり弾けたりしている。そうした物語の中で、「私」と「我々」はどう違ってくるのでしょうか?「私」の同心円上に「我々」があるのでしょうか?家族は私を内包する同心円でしょうか?映像に映っている人間と私は、同じ物語の中にいますか?
今、自分が作品を考える上で、そんな物語の事を考えています。物語は、中心が曖昧に拡張していくと、ふわふわしたり、ブヨブヨしたりしてくるんです。文字で書くと、抽象的・感覚的で解りにくいんだけど。多分、それじゃあいけない。となると、何が必要なのか…これ、読んでもわかんにくいね。
でも、半ばわざと変な感じで書いてみました。
おもしろい考え方ですね。ソワさんが言っている事の方が美味しそうな臭いがします。
今度、また会ったら詳しく説明します。
なんかコメントの記述的妥当性と説明的妥当性が同質、同位で面白いです。それとは正反対に、矛盾の危険性がある、撮影と上映と、そうではない状態と幅広く考えると確かに、生きることの物語を外から理解することは難しいです(すでに生きてしまっている、観察者はありえないから)。ただ、というか話が飛んでしまうのですが、映像によって私がすごす時間を規定してゆく、あるいはどのように過ごすのかという誰かが言っていた言葉を思い出しました。僕もうまく言えてません。今度話せたらいいですね。
そういえば、狩野家にロケハンで行った日、えんえんと彼が3歳ぐらいの時のホームビデオを見せられたな。おもしろくもあり、なんでこれみてんだろ?という気にもなったな。懐かしい。……もうみんないないんだな。
ホームビデオだと、「パリ、テキサス」内の8mm上映を思い出しますね。
返信削除むしろあれは表面上は、’’あの家族’’を破壊したようにも思えるけど…笑
いや救ったのか?
家族内アルバム的な日本のホームビデオを共有して楽しむことは、結びつきの強化や再発見のような可能性は多分にあると思いますが、それと同時に、やはり他人と家族をあまりに強くわけてしまう、むしろその「家族」をつくるための装置にも思えてしまいます。というのは極論でしょうか。
ただ、様々なメディアの登場で、手軽かつ高精度なクリップ映像でも可能になった今、そういった「家族の映像」は、今までのように家族内アルバムとしての機能を超えて、家族を開かれた物にする可能性があるのではと感じます。例えば家族紹介的なかわいらしいショートムービーや、誰が見ても面白いハプニング的な瞬間を撮れるなど。まあ、開かれたから何なんだと言われたらオシマイですが。。
投稿者さんのいう「映画」が、ホームビデオに関わらないものだったら、全然話がかわってきてしまうので、そこ誤解してたらすいません。
父が昔のホームビデオを楽しそうにか、、内の親父は子供興味ないので絶対に見ないな(僕に遺伝はしてないです)。
返信削除家族を作る装置は個人的には賛成だなぁ、
「その」家族の装置のあり方や内容は実は様々で、試行錯誤しながら「それぞれの」家族の問題を解決なり、楽しむなりしてゆくしかないよね。感傷的でもなんでも、映像がその手助けになれればよいのでは、逆に言えば血縁関係がなくても映像によってその家族になれるかもしれないし、
もちろん無理して映像に収める必要はないけれど。
うーん、家族というかわたしと、誰か、弟なり、姉なり、親父なり、母親なり、友達なり、といった個人との関係なのではないのかなぁ。
あと、この間、兄の結婚式の映像を撮りました。ラッシュを見ていて、新婦の家族をあんまり撮っていないことに気がついた(義姉さんごめんなさい)。
家族が二つだと、「家族で映画を共有して楽しむという行為」は二倍増しなのかな、二分の一なのかな。
でも、もはやこれからは一つの新しい家族なのかもしれない、と映像がそういう発想の可能性をもっているのだろうか。
そして、授業でリュミエールを見せていたのですが、工場の出口より、赤ちゃんのケンカとか、両親と赤ちゃんがご飯食べているところとかがとても面白かった。
あとでみんなと話して話したのですが、ハンディーカムのCMとかでも赤ちゃんや家族や子供たち?の映像が多いのは、何でだろうかぁ。
親としては見せたいのかな、自分の子供。。
おそらくペドロ・コスタは映画制作において「家族」をつくり出そうとしているような気がする。まだよく考えてはいませんが、直感的にそう思います。
返信削除ぼくがいった家族は、幻想としての家族を強烈に求めるが故に、バランスを欠いていく家族、それは親が子を殺める諸事件なり、村上龍の「最後の家族」や、山本直樹「ありがとう」などで提示されている家族像を通して捉えていった結果の、きわめてネガティブば意味での括弧付きの家族の事だったんですが、いつのまにか僕自身、家族という言葉そのものを「不可能な物」としてとらえていたかもしれません。
返信削除たしかに、いろんな家族があっていいわけで、感傷的に作用しようが、結びつきを再確認できるような磁場ができればそれは素晴らしい事ですね。田村さんも言葉の選択に難儀されてましたが、そもそも家族という言葉は本当にデリケートだと思います。自分の家族構成をどう説明すればいいのかという事を顧みてもそう思います。(一般的にいうなら二人でしょう)
なんか参照ばかりで申し訳ないんですが、ふと黒沢清監督の「ニンゲン合格」(99/日本)のワンシーンを思い出しました。バラバラになった家族がテーマ(一応)になっている、らしくない作品なんですが、あるシーンで、ホームビデオではないんですが家族が映っている「映像」を通して一瞬家族が誕生する。次の日にまた家族は離散するのですがその一瞬を自覚的に捉え、家族外の人間と頷き合う主人公の表情がとても印象的で、永続的な「状況」だけが家族とは限らないと感じました。
スタッフを家族と表現する事はあるかもしれませんが、スタッフのほとんどいないペドロ•コスタが被写体達というか映すコミュニティそのものと家族関係を結んでいくのは、何か彼の映像の秘密に関わることなのでしょうか。
ただ、スクリーンの前に座る鑑賞者たちはあくまでバラバラな事も興味ぶかいです。
私はホームビデオを見ている時furusawa君が言うような結びつきの再確認が起こっているような気がします。映像に写る自分自身と家族との関係、そしてそれを家族と共に見ている状況が客観的に自分自身が家族の一部だという事を思い出させてくれているような気がします。
返信削除ペドロ・コスタの映画では観客にも家族の確認に近い感覚を感じさせているのかもしれません。
映画の中の家族、作られる現場での家族、観客の家族などなど。
返信削除ペドロ・コスタの映画では観客にも家族の確認に近い感覚か。
僕がリュミエールに感じたのはそれかも。あの時ペドロ・コスタはヴァンダは映画で撮ることで存在しているって言ってたような。
映画によってはじめて存在するヴァンダは、こちらの存在を認めているようにも思える。
ありえないか。
ふるさわくん
鑑賞者たちはあくまでバラバラなのは確かに、、整理券もらうところから、映画館出るまでみんな沈黙だよね。でも後の鑑賞者同士の連絡や集まりは多いな。
ありがとう!「ニンゲン合格」見てみます。
家族というのは物語ですよね。
返信削除ホームビデオって、映っている家族を知らない人が見たら、一つの映像の断片に過ぎないけれど、家族にとっては物語映画なんだね。
現実の出来事、記憶、映像、異なるコンテクスト同士が繋がりあって、物語の網を作っている。
それは“我々”の物語。
返信削除“私の”じゃなくて。
さて“我々”って何処までがそうで、何処からがそうじゃない?
“我々”の境界線ですか難しい問題ですね。
返信削除安直な答えかもしれませんが映画を他人に観せなおかつその映画のコードを理解されたなら“我々”の映画になるのではないでしょうか?
映画を他人に観せる前は“私”の映画で他人に観せコードを理解されなけれ私にとって“私”の映画のままであり他人にとっても“他人”の映画にしかならないはずです。
まぁ、ここでの“理解”とは何なのかという事も問題ですが。
「理解」というか、物語を「生きて」しまっているんです。
返信削除僕は様々な物語の中を生きている。
物語の外にいる人なんていないんです。
物語は終わっていなくて、続いているんだから。
だから、物語を「理解」することなんて不可能なんです。
物語を感じてるんです、知覚してるんです。
また、物語によって感じたり、考えたりしている。
物語は網のように紡がれたり編まれたり、シャボン玉のように膨らんだり弾けたりしている。
そうした物語の中で、「私」と「我々」はどう違ってくるのでしょうか?
「私」の同心円上に「我々」があるのでしょうか?
家族は私を内包する同心円でしょうか?
映像に映っている人間と私は、同じ物語の中にいますか?
今、自分が作品を考える上で、そんな物語の事を考えています。
返信削除物語は、中心が曖昧に拡張していくと、ふわふわしたり、ブヨブヨしたりしてくるんです。
文字で書くと、抽象的・感覚的で解りにくいんだけど。
多分、それじゃあいけない。
となると、何が必要なのか…
これ、読んでもわかんにくいね。
でも、半ばわざと変な感じで書いてみました。
返信削除おもしろい考え方ですね。
返信削除ソワさんが言っている事の方が美味しそうな臭いがします。
今度、また会ったら詳しく説明します。
返信削除なんかコメントの記述的妥当性と説明的妥当性が同質、同位で面白いです。それとは正反対に、矛盾の危険性がある、撮影と上映と、そうではない状態と幅広く考えると確かに、生きることの物語を外から理解することは難しいです(すでに生きてしまっている、観察者はありえないから)。
返信削除ただ、というか話が飛んでしまうのですが、映像によって私がすごす時間を規定してゆく、あるいはどのように過ごすのかという誰かが言っていた言葉を思い出しました。
僕もうまく言えてません。
今度話せたらいいですね。
そういえば、狩野家にロケハンで行った日、えんえんと彼が3歳ぐらいの時のホームビデオを見せられたな。おもしろくもあり、なんでこれみてんだろ?という気にもなったな。懐かしい。……もうみんないないんだな。
返信削除