みなさん広域のワークショップへ行ってたんですね。。。。うぅ、悔しいなぁ。
僕は用事で別の大学のゼミへ行ってたのですが、論文のための読み合わせ?のようなものがあって
そこの話で思ったのですが、映画(映像)に参加する人のモチベーションの違いってなんだろうと思ったりします。とくにカメラに映る人って大きく異なりますよね。僕もしばしば、かっこつけすぎたー。という後悔があったり、だらしないなーとそれはそれで思ったりとするのですが、いかがでしょうか。
個人的に「歌う」っていうのがとてもそこがわかりやすいなぁと思いますし、とても興味があります。
ためしにいくつか映像を載せますので、それと関係ありそうな、そうでなくても引っかかる映像があったらじゃんじゃん載せてください。
けっこうキラーパスですねw
返信削除動画がはれないようなのでリンクだけかきます。
http://www.youtube.com/watch?v=i1QZ1eqVQo8
それと
http://www.youtube.com/watch?v=ZX_9S2n9CiI&feature=related
切り刻まれたClint Eastwoodの作品のリンクを貼るのは気が引けるのですが、
地に横たわりしクルスとして、俳優としての身体を一旦封印した人間の声が、どこからともなく(それはどこなんでしょう?)響いてくるというのは、ひっかかるというか震えました。
作品は未見ですが。ファンなので。(歌い手の)
返信削除http://www.nicovideo.jp/watch/sm3740596
左の男性は、同世代の創作系の学生にとって伝説になりつつある、知り合いの大井健司さんです。映画学科の方で誰か映像を使っていたような…。
http://www.youtube.com/watch?v=e9F7ub94Vns&feature=player_embedded#!
と、好き勝手に張ってますが、田村さんの「映画で人が歌う時」ならぬ、「映像で人が歌う時」に対する考えがいまいち掴めないです。
「歌う」という行為が演技を超えて、素がさらけ出てしまうということですか?
それとも歌う行為が、演技と素というものの境を限りなく曖昧にするということでしょうか。今度会うときお話を聞いてみたいです。
話がとびますが、カネフスキー監督の三部作を早稲田松竹がまた上映してくれるようなんですが、
この三つの作品で人が歌う時、すごいですよね。(何が?)
最後の作品はロシアのストリートキッズのドキュメンタリー作品ともいえるんですが、彼らが民謡を口ずさむのを聞いてると
「ああ、いつから我々はカラオケでしか歌う事がなくなったんだろう」と思いました。僕はカラオケすらできませんが。
カネフスキーの「ひとりでで生きる」を一回しか見ていないのですが、抑留された日本兵のうたは、やはり印象的でした。
返信削除どこに届くでもない悲哀の儀式のような日本のうたが、私に響くのは、日本のうたの歌詞や形式の意味、ロシア(ソ連)から遠い日本へうたう意味と、背反して、身体から生み出される音の距離の限界、意味を飛び越えた感情。
そのために、伝わるはずのない繊細な悲哀がロシアの乱暴の青年に伝わったからではないのだろうか。
そのすれ違いとつながりが、よかった。
質問ですが、今度話しましょう!
うまくまとまってないのですが
むしろふるさわ君に上手く質問しながらまとめてもらってしまった。
「ああ、いつから我々はカラオケでしか歌う事がなくなったんだろう」といった感じはよくわかります。
僕もとんでしまいますが、何人か音楽を専攻していた友人が社会人になって、関係ない仕事をしながら音楽を続けると、言っていたのにばたばたと忙殺されてやめていってしまった。そういう人は家で洗濯しながら歌ったりするのだろうか、夕飯の準備をしながら歌うのだろうか、家族が帰った瞬間歌うのをやめるのだろうか、といった妄想が。。
あと歌ってとても身体的だけどそこにのっかるメロディーは根本的にフィクションなのかな、とか。。