2011年1月22日土曜日

諏訪ゼミナールレポート

「眼差しを折り返して飛ばして」
              田村 基

諏訪ゼミナールでは前期、後期に亘り「ドキュメンタリー」をキーワードに全体で研究しました。作品研究、ゲストを交えたシンポジウムの企画、特にそこに居合わせる人との対話を中心としながら「ドキュメンタリー」という言葉を展開しました。この対話は「ドキュメンタリー」をより深い考察と斬新的な発想へと導いたように私は思います。具体的にはドキュメンタリーがフィクションに対立する概念、歴史的背景、映像表現の方法論に依存しないかたちで、個人が抱える問題、感情を中心に私と「他者」に映画を介在させたシンプルかつ根源的な関係を新しくしたからです。映画を発端として個人の価値観で考えを述べ、対話することで結果的に「他者」を知ることが、翻って映画の多様性を豊かにし、個人の価値の多様性を強固にするというのは行き過ぎた幸福な話ですが、実際そのことが可能になっていたのではないでしょうか。ペドロ・コスタ先生のおっしゃるとおりドキュメンタリーとフィクションの違いは明確ではありません。しかし「ドキュメンタリー」に付随するリアリティーと現実と世界と人間と生活と~と~と~という言葉や概念によって映画を「かっこづけ」せずに対話し、より新しい方法で映画を世界接続し、拡張し、翻って世界を豊かにする可能性を、という呼ぶより、気概を打ち出したのではないのでしょうか。
この気概こそがドキュメンタリーだと私は名づけたい。


という話はまぁあれとして、今後も折を見てみんなで映画を見たり、話したり、お酒をのめたらなんでもいいです。おつかれさま!また会いましょう!

2 件のコメント:

  1. ほんと気概って、いい言葉、厳しい言葉ですね。ここで読んでから、最近かなりいろんなところで頭をかすめます。

    諏訪さんは、あらゆる映画はインタラクティブだとおっしゃいましたが、あらゆる映画はリレーショナルアートとしての側面を持っているということですよね。あと、田村君の流動的な並立助詞としての活動も、今後もここで告知していって欲しいです。あ、むろん、放たれた一つの言葉としての活動も。

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  2. コメントありがとう。「放たれた一つの言葉としての活動」は確かに。僕はここのところゼミ後にみんなでしたバスケが頭をかすめます。結構いろいろなビックなことがあって、ペドロ・コスタさんや、黒沢清さんににあったり、アピチャッポンの映画見たり議論したりしたのにね。なんでだろ。あれがとくに印象として残ってる。

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