2012年7月7日土曜日

6/29 極私的エロス 宋太鎬

6/29のゼミにて、原一男監督の作品「極私的エロス・恋歌1974」を鑑賞し、その後に私がかねてよりモヤモヤと疑問に思っていた映画が人を傷つける可能性の問題について議論しました。
この極私的エロスという映画は「原一男監督が自分の元同棲相手を現恋人と一緒に取材した作品」というボンヤリした前情報のみを聞いていた私は当初、その元同棲相手からすればなんとはた迷惑なのだろうかという憤りからなる偏見を持っていました。
しかしいざ観てみると、原一男監督の取材対象に向けられた強い愛情が不思議とカメラ越しに伝わる、個人的には非常に好感の持てる映画でした。
何故私はこの作品に好感を持ったのかを考えると、この映画はそもそも原一男の現実生活のとある一つの目的(元同棲相手の美由紀と離れたくないという気持ち)の為に映画撮影という手段が用いられた結果のものであり、それは作品の為に現実をあてはめて利用していくというプロセスとは逆であり、その逆のプロセスには少なくとも利用する利用されるといった利害関係だけで成り立つ様な人間関係は存在しないからなのではないかと考えました。

そしてゼミで諏訪先生が次のようにおっしゃていたことが印象的でそれは、カメラの暴力性の話で、撮影者と被写体の二者の関係はカメラによって撮る撮られるという二つの立場に分けられ、二者の力関係が普通は平等で無くなる、しかし極私的エロスでは美由紀が「原君私のこと撮ってね!」と言うように、むしろ映画づくりに参画しておりあの二人の力関係は平等に近いのではないかということでした。

そしてゼミを終えた後で私は、私が映画が人を傷つける可能性というようにもやもやと考えていた事は、映画に利用し得る人間や場所を、作品の目指される目標に是か非かという一面的にしか捉えず無理矢理あてはめようとすることで、迷惑を被るというよりはむしろ傷つく人間が出てくることがあるのではないか、というようなことなのかもしれないと思いました。抽象的な物言いで申し訳ありません。

2012年6月14日木曜日

明日6月15日のゼミナールは校外授業です。16:30にポレポレ東中野http://www.mmjp.or.jp/pole2/ に集合してください。「隣る人」を鑑賞します。上映後刀川和也監督と森達也さんの対談があります。

2012年5月31日木曜日

明日6月1日のゼミは、大学にて行います。開始時間を14:30とさせてください。よろしくお願いします。諏訪

2012年5月1日火曜日

4/27の諏訪ゼミ『原発切抜帖』/『In Public』


先週、先々週にかけて諏訪ゼミでは、上記の3つのドキュメンタリー作品を観賞し、話し合いを行いました。『プリチャピ』『原発切抜帖』は原発問題を、『In Public』は中国の山奥の都市の情景を扱った作品です。


  『プリチャピ』『原発切抜帖』『In Public』の感想をGW中に、各自UPするということでしたので、好きな時間にコメントUPしていきましょう。


宮川万由

2012年4月20日金曜日

プリピャチ

本日のゼミは映画「プリピャチ」についてみんなで議論しました。
私が公式サイトにコメントした文章です。参考までに引用します。
作者の「立場」について話しましたね。世界に対する「超越的」な立場と、世界の中にいて世界が「不透明である」「まとまりのある意味が壊れている」とする立場。
感想を書き込んでください。


『「たいして恐ろしくない」ことの悲劇』

老人が馬車でゆっくりと村を一周する。汚染されている川で今も漁をする老人が、ゆっくりと船を漕ぐ。今も発電所の研究所で働く女性は、廃墟となったわが家を訪ねてみる。カメラは、ゆっくりとその場所を移動する人々を延々と追い続ける。そこは「ゾーン」と呼ばれ、そこから何も持ち出しては行けないし、何も持ち込んでは行けない場所。しかし、その計り知れない危険がカメラに写る訳ではない。特別なことは何も起きない時間と空間。老人が言うようにそこは実は安全で「不安は無い」のかもしれないし、警備員が言うように「100年後も人は住めない場所」なのかもしれない。しかし、当然ながら放射能は写らないし匂いも色も無い。危険とは「情報」でしかないかもしれないのに、ここにはその情報さえ無い。『プリピャチ』は決して声高に主張せず、その孤島のような場所で日常を生きることの不確かな不安、決して視覚化されることの無い恐怖の質というものを、明晰なカメラによるシンプルな映像言語で浮かび上がらせる。「たいして恐ろしくない」ということがどれほどの悲劇であるのかを私たちは思い知る。

2012年4月19日木曜日

2012年度諏訪ゼミナールスタートしました。今年はどんな展開になるか楽しみです。卒業生も気が向いたらコメントください。