In Publicについての感想 この映画を観た際、私は終始これは興味深いと感じながら鑑賞していた。そして何が興味深かったのかを観た後に考えた。幾つかの理由が思い浮かぶ。当初その理由の一つはこの映画が私の良く知らぬ土地、文化圏の人々が生活している様子を映していることが興味深かったのかと考えていた。だが改めて考えると実はそうでなく単にあの場所がユニークだったから目を惹かれたのだと気付いた。そしてあの場所のユニークさが私に伝わったのには二つ理由があると考えた。一つは場所そのものではなく主にその場所に住む人々を映し出していること、一つは撮影に三脚が用いられていたり人々の表情をがっつりアップで写したり、又カットが割れている等、映像がフィクション映画を思わせるそれになっていたことの二点だ。おそらく「場所そのものよりむしろそこに暮らす人々の生活感」を、「フィクション映画を思わせるあの撮り方で撮影すること」が、あの場所の空気感や歴史的背景やエネルギーをそれとなく感じてもらうのに最も適切だと監督が実際にあそこに赴いた際に判断したのではないかなと個人的に思った。
In public 駅の待合室 バス停、車内 ビリヤード場 ダンスホールといった公共施設でキャメラの存在を知りながらも特に何かを語ったりするわけでもなくただそこを利用する人々。僕はそうした彼らに目を向けてるうちにその地で生きる人々が見せる数少ない情報、行為や仕草をたよりに何かを読み取って自分の中で物語を紡いでいこうとしていることに気づきました。タバコを吸ったりうろうろしてたりとか何気なくやってしまってる行動だけど、そこには確かにその人の中身が漏れ出していると思います。そういったものを埋もれさせることなくシンプルにとらえたのが In publicな気がします。観る者に勝手に想像させる何か、映っているものではない部分。それらを観る者が常にどこからか読み取ろうとしていて、もっと言えばそれを想像することできてしまうということ。これからの自分の映画での演出について考えさせられる作品でした。DVDありがとうございました。 高橋純一
まず今回のゼミに対しての率直な感想は、3作品の全く異なるドキュメンタリー映画を見比べ、その性質をみんなで考えるということは単純に面白く、作品制作の作業とはまた違う時間を共有できたと思います。
返信削除特に私は「ドキュメンタリーに中立(な立場というもの)はあり得るのか?」という問題についての話が印象に残っています。
3作品それぞれの作家の立場を考えた時、「プリチャピ」では作家は問題に対して超越的な視点から、「In Public」では作家は作家自身の感じたままに、「原発切抜帖」は作家の反原発の主張が明確に示されています。結果として、「プリチャピ」はチェルノブイリ付近に住む人間の情報の乏しさや矛盾を淡々と映し出し、かえって事の重大さを誇張していました。そして、「In Public」では無許可で撮影されているであろう被写体がキャメラに全く動じず、その街の生活がまるでフィクションの映像のように記録されていましたし、「原発切抜帖」は数十年にわたる原発問題の新聞の切抜きとナレーションで徹底的にこちらに向かってきました。
しかし、私はあくまで作家に作品を作る意図がある限り、その映像に中立は成り立たないと思っています。中立(のようだ)と感じ取るか否かは、その意図をどのように撮影し編集するかの問題で、ドキュメンタリーの性質の違いはそこにあるのではないか、と今回思いました。ですので、編集で意図を順序良く(映像の意味と言葉の因果関係を)構成したものが「原発切抜帖」であり、その意図をあえて伏せ、取材の中での証言の矛盾も残したものが「プリチャピ」であり、意図の余白(見せる必要が必ずしも無いようなもの)を映像にまとめたが「In Public」だったという解釈です。そこに中立云々は無いのだと思います。
今年は、福島の原発問題が沢山映画になっていると聞いています。個人的にはまだ一本も観ていませんが、どのような立場の人がどういう意図を持って何を撮ったのか、気になるような、ならないような…。
宮川万由
今回観たドキュメンタリー映画3作品について。
返信削除まず『プリピャチ』。この映画は、チェルノブイリ原発事故後、立入制限区域となった“プリピャチ”(30キロ圏)で、12年経ってもいまだに暮らし働き続ける人々のインタビューを中心とした映画である。
私はこの映画を観て、最初から最後まで言いしれぬ不安のようなものを抱いた。それは遠くが霧などで見渡せないような、視界不良のような不安であった。俯瞰で見るものがない。“地図”となるものがないのである。“地図”それは地図そのもののことであるとともに、私が普段テレビなどで、こういったドキュメンタリーを見るときに自然と頼りにしていた、ナレーションだったり、作者の声、意図、のことだ。私はこのドキュメンタリーを観て、如何に普段“それら”に自分の思考、または、映像から得る情報を委ねていたのかを思い知った。またそういったある意味《親切なドキュメンタリー》がテレビに多いということがわかった。
しかし『プリピャチ』も監督に意図がないはずはないと思う………。
また『プリピャチ』は「ゾーン」の外からの目、政治家やジャーナリストなどの発言がない。インタビューは何人にもしているが、それは全て「ゾーン」の内部の人間のものである。言いしれぬ閉塞感。各々のインタビュー、事実の矛盾、どれもが真実であるということ、それらもまた私を迷路に、視界不良の感覚に、陥らせていたのだと思う。
私達が「ゾーン」の中にいる彼ら彼女らに対して抱く感想は、もしかしたら、外国人が今の日本にいる私達に抱くものと重なるのかもしれないという恐怖が最後に残った。
次に『原発切抜帖』。この映画は、全編、新聞の切り抜きで作られている。数十年にわたる原発(原子力)問題の新聞の切り抜きとナレーションのみの映画だ。
この映画を観て、まず私が感じたことは、これは《方法》としての割合が大きい映画だな、ということ。
ナレーションはその都度、新聞記事の内容を批判することもあれば、賛同することもあるが、一貫して、「反原発・反原子力」ということがわかる。思わず、身構えてしまうくらい、監督の主張が全面に出ている、寧ろ、それだけを出している映画だと感じた。
そして『プリピャチ』とはまた違うが、この映画にもある閉塞感を抱かずにはいられなかった。それは私の思想がどうとかの問題とは一切関係なく、この映画も外からの目(他の意見)がないからだと思った。新聞が映し出され、観ている人間に対して、1人の人間が一方的に語りかける映画…。
観終えた後、諏訪先生の、この映画から意味(?)を取ったとき、この映画は映画として、どうなのか、という話がとても興味深かった。
また“方法”としての映画もあっていいのかもしれない、とも思えた。
ただそれは危険であるのかも…
最後に『In Public』。
中国の山地の公共空間を監督が自由(?)に撮った映画だ。
この映画は先の『原発切抜帖』とは大きく異なり、自分で意味を探してしまう映画だと思った。
監督が撮ろうと考えたもの以外にも “映ってしまったもの”が多くある、と表現した人がいたが、その通りだと思った。そしてそこに勝手に出来ていく世界。
先にも述べたが、映画の内容・意味などの話で、諏訪先生の、汲み上げられずこぼれたものがまた一つの映画になる、といったような言葉がとても印象的だった。この映画に観入ってしまうのは、そこに映っている人物の仕草や行動の面白さだけではなく、その画面に入り込んでしまった“何か”によるものなのかもしれない。その“何か”は、「これを観ろ」というものがないために(或いは本当はあるのかもしれないが)、恐らく観る度に違ってくるのだと思う。
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村上 魁
In Publicについての感想
返信削除この映画を観た際、私は終始これは興味深いと感じながら鑑賞していた。そして何が興味深かったのかを観た後に考えた。幾つかの理由が思い浮かぶ。当初その理由の一つはこの映画が私の良く知らぬ土地、文化圏の人々が生活している様子を映していることが興味深かったのかと考えていた。だが改めて考えると実はそうでなく単にあの場所がユニークだったから目を惹かれたのだと気付いた。そしてあの場所のユニークさが私に伝わったのには二つ理由があると考えた。一つは場所そのものではなく主にその場所に住む人々を映し出していること、一つは撮影に三脚が用いられていたり人々の表情をがっつりアップで写したり、又カットが割れている等、映像がフィクション映画を思わせるそれになっていたことの二点だ。おそらく「場所そのものよりむしろそこに暮らす人々の生活感」を、「フィクション映画を思わせるあの撮り方で撮影すること」が、あの場所の空気感や歴史的背景やエネルギーをそれとなく感じてもらうのに最も適切だと監督が実際にあそこに赴いた際に判断したのではないかなと個人的に思った。
宋太鎬
コメントが遅れてしまいました。森本です。
返信削除私はインパブリックがスケッチに似ているなぁ。と思いました。
サッと印象を捕らえて描く時もあれば、細部まで執拗に描く時もある。そして描き込まれているからといって一番大切というわけでもない。
また、スケッチは描いた人、制作者にとって一番意味深いものになるけれど、他の人がそのスケッチを見て何も感じないわけではない。見た人は見た人なりに何か感じる。
そんな映画だと思いました。
森本はる葉
「プリチャピ」
返信削除閉じられた場所で撮影はされているが映画全体は開かれている。原発はもう深く我々の様な人間や社会と関わってしまっているからである。インタビューによって語られている言葉と映像は意味を産み、その意味の目はプリピャチだけに留まらず、ウクライナ、ロシア、アメリカ、日本、に向けられる。
ちなみに私は反原発というより反政府的な映画だと感じた。
「原発切り抜き帖」
まだ文字を左から読む時代から原発の問題は続いているのか。と思った。 新聞が映っていたが、私はナレーションを聞くので精一杯で見出しすらも読めない時があった。だから私にとって、ナレーションによる言葉と新聞による言葉(意味)の映像ではなく、ナレーションによる言葉と新聞の映像として観た。そうするとやっぱり新聞に載っている写真に意識が反応した。
あと、時間的な飛躍が印象に残っている。ナレーションによる意味の飛躍と、新聞による時間の飛躍でもありました。時間とは時代。新聞と、新聞を通して見る時代の飛躍。そうゆうものが私のこの映画の意味だった。
「In Public」
この映画を観て、諏訪さんが昔言っていた「体験させる」という言葉を思い出した。言っていた内容の詳細は忘れてしまいました。そしてこの映画は映画として正直に進んでいく。おそらくあの映像がジャ・ジャンクーが見たあの町に凄く近いのではないか。自分が見た興味深いものを興味深い映画として映像に定着させることができるのがすごい!観ているうちにジャ・ジャンクーの体験が自分の体験のように感じられるように感じられる、いや、体験と言うより視点かな?実際にあの町を体験しても違いすぎるかもしれない。ジャ・ジャンクーの視点が、乗り移ってきた感覚。視点はイメージになって様々なショット、例えばクロースアップやフルショットに置き換えられる。その選択が映画と世界に正直なのかもしれない。モンタージュについても、同様のことが言える。
ワクワクする映画でした。
In public
返信削除駅の待合室 バス停、車内 ビリヤード場 ダンスホールといった公共施設でキャメラの存在を知りながらも特に何かを語ったりするわけでもなくただそこを利用する人々。僕はそうした彼らに目を向けてるうちにその地で生きる人々が見せる数少ない情報、行為や仕草をたよりに何かを読み取って自分の中で物語を紡いでいこうとしていることに気づきました。タバコを吸ったりうろうろしてたりとか何気なくやってしまってる行動だけど、そこには確かにその人の中身が漏れ出していると思います。そういったものを埋もれさせることなくシンプルにとらえたのが In publicな気がします。観る者に勝手に想像させる何か、映っているものではない部分。それらを観る者が常にどこからか読み取ろうとしていて、もっと言えばそれを想像することできてしまうということ。これからの自分の映画での演出について考えさせられる作品でした。DVDありがとうございました。
高橋純一