諏訪ゼミナール
東京造形大学諏訪敦彦ゼミのブログです。ドキュメンタリーをキーワードに映画の可能性について研究します。外部から自由にコメントしていただいて構いません。
2019年5月12日日曜日
2013年5月24日金曜日
2013年5月17日のゼミ
吉田喜重監督がリュミエールのカメラマン、ガブリエル・ヴェールの生涯を描いたドキュメンタリー「夢のシネマ 東京の夢」を見て、カメラが持つ権力あるいは暴力性について話しました。私が自分自身のフィクション映画「H Story」の撮影のときに感じた、カメラあるいは撮影行為が孕む暴力性についても話しました。
2013年5月10日金曜日
2013年5月10日のゼミ
2013年度ゼミスタートしました!
先週見た「in public」のジャ/ジャンクー監督のインタビューを見つけたので参考まで。
ピンぼけですが本日のホワイトボード。
「極北のナヌーク」のナヌークのある瞬間の動きが、「人間のようではなくて、動物的に感じる」というコメントをめぐって「何故、動物的と感じるのか」について話したのが印象に残りました。それは理解できないから。理解できるものとできないもの。理解できない何かが私を突き刺す。ロラン・バルトの「明るい部屋」の「ストゥディウム」「プンクトゥム」を想起しました。「明るい部屋」は改めて取り上げます。
先週見た「in public」のジャ/ジャンクー監督のインタビューを見つけたので参考まで。
ピンぼけですが本日のホワイトボード。
「極北のナヌーク」のナヌークのある瞬間の動きが、「人間のようではなくて、動物的に感じる」というコメントをめぐって「何故、動物的と感じるのか」について話したのが印象に残りました。それは理解できないから。理解できるものとできないもの。理解できない何かが私を突き刺す。ロラン・バルトの「明るい部屋」の「ストゥディウム」「プンクトゥム」を想起しました。「明るい部屋」は改めて取り上げます。
2013年2月21日木曜日
2010年、ゼミ生より/へ
どうも、おひさしぶりです。
現、4年生の皆さんは、
初めまして、フルサワです。(だいたいお知り合いだと思いますが)
僕らの代のゼミ生には、留年やら、院生やらで卒業を先延ばしにした奴が4人いたのは皆ご存知だと思いますが
偶然にも、今年で皆、大学からサラバすることになりました。
卒業式が無かった代と象徴づけるのも、アレですが、まあ実際無かったわけですし、せっかくの機会なんで、もしよかったら皆集まって飲んだり、話したりしませんか?
そしてそうやって、前みたいに、身近で卑近な話題から始まって大風呂敷を広げる、映画の話、やらを、できたらと思います…
変わった事も変わらないこともあると思います。俺は、だいたい変わってないっぽいですが。
現ゼミ生、映画科4年、当時のモグリ、当時の映画科とか、諏訪さんも、皆歓迎です。
平日なので、けっこう厳しいかもしれませんが…
てか卒業式、21日であってるよね?
2012年7月7日土曜日
6/29 極私的エロス 宋太鎬
6/29のゼミにて、原一男監督の作品「極私的エロス・恋歌1974」を鑑賞し、その後に私がかねてよりモヤモヤと疑問に思っていた映画が人を傷つける可能性の問題について議論しました。
この極私的エロスという映画は「原一男監督が自分の元同棲相手を現恋人と一緒に取材した作品」というボンヤリした前情報のみを聞いていた私は当初、その元同棲相手からすればなんとはた迷惑なのだろうかという憤りからなる偏見を持っていました。
しかしいざ観てみると、原一男監督の取材対象に向けられた強い愛情が不思議とカメラ越しに伝わる、個人的には非常に好感の持てる映画でした。
何故私はこの作品に好感を持ったのかを考えると、この映画はそもそも原一男の現実生活のとある一つの目的(元同棲相手の美由紀と離れたくないという気持ち)の為に映画撮影という手段が用いられた結果のものであり、それは作品の為に現実をあてはめて利用していくというプロセスとは逆であり、その逆のプロセスには少なくとも利用する利用されるといった利害関係だけで成り立つ様な人間関係は存在しないからなのではないかと考えました。
そしてゼミで諏訪先生が次のようにおっしゃていたことが印象的でそれは、カメラの暴力性の話で、撮影者と被写体の二者の関係はカメラによって撮る撮られるという二つの立場に分けられ、二者の力関係が普通は平等で無くなる、しかし極私的エロスでは美由紀が「原君私のこと撮ってね!」と言うように、むしろ映画づくりに参画しておりあの二人の力関係は平等に近いのではないかということでした。
そしてゼミを終えた後で私は、私が映画が人を傷つける可能性というようにもやもやと考えていた事は、映画に利用し得る人間や場所を、作品の目指される目標に是か非かという一面的にしか捉えず無理矢理あてはめようとすることで、迷惑を被るというよりはむしろ傷つく人間が出てくることがあるのではないか、というようなことなのかもしれないと思いました。抽象的な物言いで申し訳ありません。
この極私的エロスという映画は「原一男監督が自分の元同棲相手を現恋人と一緒に取材した作品」というボンヤリした前情報のみを聞いていた私は当初、その元同棲相手からすればなんとはた迷惑なのだろうかという憤りからなる偏見を持っていました。
しかしいざ観てみると、原一男監督の取材対象に向けられた強い愛情が不思議とカメラ越しに伝わる、個人的には非常に好感の持てる映画でした。
何故私はこの作品に好感を持ったのかを考えると、この映画はそもそも原一男の現実生活のとある一つの目的(元同棲相手の美由紀と離れたくないという気持ち)の為に映画撮影という手段が用いられた結果のものであり、それは作品の為に現実をあてはめて利用していくというプロセスとは逆であり、その逆のプロセスには少なくとも利用する利用されるといった利害関係だけで成り立つ様な人間関係は存在しないからなのではないかと考えました。
そしてゼミで諏訪先生が次のようにおっしゃていたことが印象的でそれは、カメラの暴力性の話で、撮影者と被写体の二者の関係はカメラによって撮る撮られるという二つの立場に分けられ、二者の力関係が普通は平等で無くなる、しかし極私的エロスでは美由紀が「原君私のこと撮ってね!」と言うように、むしろ映画づくりに参画しておりあの二人の力関係は平等に近いのではないかということでした。
そしてゼミを終えた後で私は、私が映画が人を傷つける可能性というようにもやもやと考えていた事は、映画に利用し得る人間や場所を、作品の目指される目標に是か非かという一面的にしか捉えず無理矢理あてはめようとすることで、迷惑を被るというよりはむしろ傷つく人間が出てくることがあるのではないか、というようなことなのかもしれないと思いました。抽象的な物言いで申し訳ありません。
2012年6月14日木曜日
明日6月15日のゼミナールは校外授業です。16:30にポレポレ東中野http://www.mmjp.or.jp/pole2/ に集合してください。「隣る人」を鑑賞します。上映後刀川和也監督と森達也さんの対談があります。
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