2010年5月20日木曜日

報告遅くなりましたが、5月8日に映画美学校の講座「世界のドキュメンタリー」にゼミメンバーで参加し、ペドロ・コスタの「ヴァンダの部屋」「何も変えてはならない」を見て、私とペドロとの対談を聞いてもらいました。どうでしたか?対談は何の打ち合わせもなしでしたが、ひさしぶりに彼とじっくり話しました。「あなたの微笑みはどこに隠れたの?」は、ジャン・マリーストラウヴ/ダニエル・ユイレの編集作業を捉えた貴重な作品です。図書館にDVDがありますので、見てください。今度上映の機会があればストローヴの作品もどこかで見ましょう。彼との酒席に参加した人は、彼の人柄があの映像を生むことを何となく実感できたのではないでしょうか。あの日みんなと別れてTwitterに次のとおりつぶやきました。ペドロ・コスタはキャメラポジションを探すために途方もない時間を費やすが、それは彼の映画的美意識を満足させるためでも、対象を自分のものにするためでもなく、人間の自由のために闘っているということだと思う。今日彼と話していて、改めてそう思った。「映画が大事なのではなくて人間が大事なのだ」という命題と、「実際にリスボンに住んでいるヴァンダがどうであろうと、大事なのはヴァンダが映画によって存在すること」という相反する命題をどう切り結ぶかを考えることで、映画の可能性は見えてくるはず。

3 件のコメント:

  1. 上映会に参加できなかった自分が発言するは場違いかもしれませんが、自宅で鑑賞していていつも不思議な点がありました。

    真摯に世界を捉えた結果、何か自分の見知っている世界とは別の物が映り込んでいる映画があると思います。というか映画はそういうものなのかもしれませんが。
    そういう映画に直面した時、たいていの場合「目撃した!」という獲得意識または、その世界への感情移入が生まれると同時に、「絶対的にその世界とは切り離されたところにいるんだ」「理解したつもりで彼らの現実なんてわかるわけが無いんだ」という自意識を持つと思います。あるいは持つように意識すると思います。(唯一の例外が同世代の映画かもしれません、まだ出会ったことが無いのですが、きっと不愉快な感情なのでしょうか)

    「ヴァンダの部屋」は、むしろそういった映りこんでしまった映像によって全編構成されたような映画だと思うのですが、そのような二重性に引き裂かれることが比較的薄かったように思えます。
    「そこにいて眼差しをむけてかまわない」という不思議な安心につつまれていたような気がしました。むしろ寝ることだってできる!
    その安心感というか、肯定へと誘うなにかを、監督の残した発言や文章でなんとなく掴みかけていたのですが、諏訪敦彦監督のつぶやき(友人としてのつぶやきかもしれませんが)によって少し接近できたかもしれません。

    長くまとまりがかけました。
    みなさんの意見を聞いてみたいです。あと対談と上映会の自慢話とか笑

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  2. 映像が世界への参画と断絶、そこにいることと、決してそこにいないことによって引き裂かれる体験であるというのは重要な指摘だと思います。見た人間をその気にさせてしまう映像の「いかがわしさ」も、そこに起因するのでしょうね。それをどう乗り越えるのだろう。「ヴァンダの部屋」の「その安心感というか、肯定へと誘うなにか」はどこから来るのだろう。

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  3. (2010年10月27日、mixiで書いた日記の転載です。拙い論ですが、ちょっとのせてみました。)


    ロランバルトは、遺作「明るい部屋」において、肖像写真について言葉を巡らせた際、次のように著している。

    「カメラを向けられると、私は同時に四人の人間になる。
    すなわち、私がそうであると思っている人間、
    私が人からそうであると思われたい人間、
    写真家が私はそうであると思っている人間、
    写真家がその技量を示すために利用する人間、である」

    これは肖像写真が当時、ひとつの「産業、サービス」であったがために多少皮肉めいた四つのパターンになってはいるが、被写体との関係が私的なものであった場合、もうすこし自体は複雑になるだろう。
    すなわち、ここに「私が「その人」からそうであるとおもわれたい人間」等が混入してくるかもしれないし、ぶれのないひとつの身体としてそこに存在できるかもしれない。
    いずれにしても、見る関係、みられている関係が写真において決定的なのは、一眼レフにせ大判カメラにせよ写真湿板にせよ、カメラを間に介するにせよ、被写体と撮影者は「向き合っている」
    からだと思う。

    一方映画においてはどうだろうか。
    ベンヤミンは、「複製技術時代の芸術作品」の中で、カメラという機械を前にして、まるでカメラなど無いのかのように振る舞う事でカメラの眼差しを無効化する映画俳優の存在を、機械に対する復讐者と位置づけた。日夜機械に向き合って労働するというあらたな習慣が人間にこれまでに無い疲弊を強いていた時代であるからだろうか。これは映画の役割を示したひとつの例だが、カメラと人間の関係について非常に示唆的ではあるだろう。「まるで無いかのようにふるまう」ことが根本的にある場合、そこに撮影者や監督がいてもそれは「向き合う」対象だろうか。

    ヒトは進まずとも時間だけが、50年、一世紀と進み、映画は死んだ死んだといわれながらも(しかしいったい誰に?)、新しい可能性が摸索される中で、一部の監督はカメラと被写体との関係をベンヤミンが述べている「映画」よりむしろ写真のほうに接近する事で、あらたな可能性、いやむしろ原初の可能性に接近している気がする。


    ペドロの映画を前にして、人々は「どうやって役者はカメラを無視できるようになったのですか?」と聞く。
    ここでペドロは誠実に答えるわけだが、個人的な解釈を挟ませてもらうと、むしろ役者は積極的にカメラを意識していたのではないかと思う。
    カメラにみられているという状況を役者は、徹底的に自覚する。カメラというよりは、その後ろに立つ監督に見られているという状況を受け入れる。いや、むしろ信頼関係をカメラ=監督と築いてしまう。
    それにより、バルトが肖像写真において論じたような現象がおき、役者は「カメラがそこに無いようにふるまう」時よりはるかに様々な「ゆらぎ」を見せる。結果、映画はまた新たな形で汲取きれない何かをつきつけてくるのではないだろうか。

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