2012年4月20日金曜日

プリピャチ

本日のゼミは映画「プリピャチ」についてみんなで議論しました。
私が公式サイトにコメントした文章です。参考までに引用します。
作者の「立場」について話しましたね。世界に対する「超越的」な立場と、世界の中にいて世界が「不透明である」「まとまりのある意味が壊れている」とする立場。
感想を書き込んでください。


『「たいして恐ろしくない」ことの悲劇』

老人が馬車でゆっくりと村を一周する。汚染されている川で今も漁をする老人が、ゆっくりと船を漕ぐ。今も発電所の研究所で働く女性は、廃墟となったわが家を訪ねてみる。カメラは、ゆっくりとその場所を移動する人々を延々と追い続ける。そこは「ゾーン」と呼ばれ、そこから何も持ち出しては行けないし、何も持ち込んでは行けない場所。しかし、その計り知れない危険がカメラに写る訳ではない。特別なことは何も起きない時間と空間。老人が言うようにそこは実は安全で「不安は無い」のかもしれないし、警備員が言うように「100年後も人は住めない場所」なのかもしれない。しかし、当然ながら放射能は写らないし匂いも色も無い。危険とは「情報」でしかないかもしれないのに、ここにはその情報さえ無い。『プリピャチ』は決して声高に主張せず、その孤島のような場所で日常を生きることの不確かな不安、決して視覚化されることの無い恐怖の質というものを、明晰なカメラによるシンプルな映像言語で浮かび上がらせる。「たいして恐ろしくない」ということがどれほどの悲劇であるのかを私たちは思い知る。

2012年4月19日木曜日

2012年度諏訪ゼミナールスタートしました。今年はどんな展開になるか楽しみです。卒業生も気が向いたらコメントください。

2011年10月31日月曜日

特別シンポジウム:「郊外」と「わたし」の居場所ー「ニュー・ドキュメンタリー」から考える今日の制作とその環境

諏訪ゼミナールでは「郊外」と「わたし」の居場所ー「ニュー・ドキュメンタリー」から考える今日の制作とその環境 と題して、特別シンポジウムを行います。

鈴木了二(建築家・早稲田大学芸術学校校長)
ホンマタカシ(写真家・東京造形大学客員教授)
諏訪敦彦(映画監督・東京造形大学学長)
2011112日(水)17:00~20:00
東京造形大学12-201教室(レクチャールーム)

 本学の客員教授も務める写真家のホンマタカシさん、映画への造詣が深い建築家の鈴木了二さんを招き、われわれのゼミの教官でもある映画監督の諏訪敦彦さんを加えての座談会を開催します。写真、建築、映画、お三方それぞれの専門から、わたしたちの多くが生活をしている「郊外」に対する見解を伺い、その場所の多角性を浮き彫りにする事で、相原と云う「郊外」、「ここ」で制作を行う事の可能性に言及できればと考えています。
 もっとも、「郊外」に近い場所、あるいは「郊外」の中で作品を制作されているホンマタカシさん。近年開催された「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー 展」に出品された作品を基点に、「郊外」で制作を行っている私たちの「いま、ここ」を見つめ直す機会となる「場」を構成し、それを聴講する方々と共有できば幸いです。

 座談会の冒頭に、鈴木了二さんとホンマタカシさん、お二方の映像作品の上映を行う予定です。

上映予定作品:「物質思考35 空地 空洞 空隙」鈴木了二
       「Short Hope」「Trails(部分)」ホンマタカシ

主催:諏訪敦彦ゼミナール+CS-Lab






2011年10月30日日曜日

今後の予定です。

 10月31日 15時より、文学フリマに出す紙面の本刷りを行います。
参加可能な人は、15時にゼミで授業を行っている部屋の前に集合してください。

 11月2日 ホンマタカシさん、鈴木了二さんを招いての座談会を17時より開催します。
準備を行うため、参加可能な人は13時から大学院棟二階のレクチャールーム前に集合をお願いします。

 11月3日 文学フリマに出店します
準備から参加可能な人は、9:30に流通センター駅(東京モノレール)前に集合してください。
文学フリマ自体は、10:00~16:00まで開催しているので、時間がある人は遊びに来てください。

文学フリマに出す紙面の声明文を変更しました。これが、差し替えたモノです。

 DVの普及や映像投稿サイトの拡張などにより、「撮る」事も「見せる」事も容易化した今日。「撮る」事は、日常的な所作の一つとなった。その環境の中で私たちは、どの様に映画を開始し、それをどこへ向けていくべきなのか。
 誰から頼まれた訳でもなく映画を作り、友人でも知人でもない「誰か」に「見せる」事。そこには、不安と恐怖がある。それらから逃れる事は簡単だ。友人知人の了解の範囲内で映画を作り、彼らにのみ提示すればいいのだから。
 しかしそれは、見ない事の選択でしかない。見えない「誰か」を意識し、恐怖や不安と向き合う事で、「撮る」事は発見へと変質する。生活を支える「ここ」がよそとして見出され、「私」が意識していなかった私と出会う。
不可視の「他者」に「見せる」事を前提にした「撮る/見る」行為は、発見を誘発するのみならず、新しい了解の為の「場」を構成していく事に他ならない。
本誌が、見えない「他者」を意識化し、自身の言語を翻訳し直す、映画とは異なる仮設的な「場」となればと考えている。
東京造形大学 諏訪ゼミナール 伊東弘剛

2011年10月21日金曜日

文フリに出すヴァージョンの声明文です。

「撮る」とは何か。

「「撮る」とは何にもまして「見る」ことにほかならならず、間違っても「見せる」ことではない。ましてや、「聞かせる」ことでもないはずです。」と、蓮實重彦氏は言う。
蓮實氏の言葉は、「撮るたびに「見る」ことが倫理として形成される映画の役割がかつてなく求められている。21世紀においてもなお映画が必要とされているのは、そのためにほかならない」と続く。「見る」ことの「倫理」。それは、「個人」的な行為を脱「個人」化していく運動である。
DVの普及や映像投稿サイトの拡張等、映像環境が「液状化」した「今日」だからこそ、その運動は求められなければならない。それは、ホンマタカシ氏の「報道的なドキュメンタリーではなく、個人的なドキュメンタリーがどの様に可能かを考えるものとしての「今日」のドキュメンタリー」と云う言葉とも響き合っている。
本誌は、見えない他者を意識化し、自身の言語を見つめ直す、映画とは異なるもう一つの<仮設>的な「場」となればと考えている。

イトー

2011年10月17日月曜日

〜雑誌の現在状況〜

〜雑誌の現在状況〜
14日にゼミで話された雑誌の記事を書く人と、その内容や役割を載せておきます
<小林>
・ペドロ・コスタ監督への手紙全文とそれをもとにした講演の全体像
・赤崎監督インタビュー
・映画『I Love(080)』と『青春ララ隊』の紹介文
・山形国際ドキュメンタリー映画際の紹介

<伊東>
・雑誌の声明文
・鈴木さん、ホンマさんの座談会の紹介
・黒沢清監督の講演会の紹介文
・映画『アリスが落ちた穴の中』、『姫ころがし』、『舟の作り方』、『イリュージョン』の紹介
・雑誌内の他の企画の紹介と時期

<隈元>
・映画『ちづる』の紹介

<久保寺>
・映画『女として生きる』の紹介

以上の内容は11月3日に向けて現在進行中です